一人を楽しむブログ

孤独ならぬ御一人様を愉しむ為の備忘録。

先を讀む事

將棋の博物館を訪ねる

2ヶ月前の丁度今頃、私は將棋の町として有名な山形縣某所を訪ねておりました。

1年の内に何回かこうして一人旅を樂しんでいる身の上でございますが、今回の旅もなかなか樂しいものでございました。

 

將棋とは古くからのお附き合いで小學校の時から友達と愉しんでいたものでございました。

高校時代は休み時間に將棋盤を囲んでみんなで盛り上がったものでした。

ルールさえ知っていれば誰でも樂しめるものですから、普段あまり喋らない人とでも一緒になって遊ぶ事が出來るのが素晴らしいところです。

宿も素晴らしき温泉旅館

旅日記|くつろぎぶた|note

旅の詳しくはこちらのブログにまとめてありますが、この將棋と云うのは先を讀んで戰略を立てるのが肝となって參ります。

「こう來たらこう出る。そしてこうなってくる…」と云った具合に相手の手の先の先迄讀んで一手を指していくのです。

 

聞くところに依ると嘗て野球のヤクルトスワローズでは野村監督が選手達に將棋を奨めていたそうでございまして、この「先を讀む」と云う事は色々な分野で應用の利く有効な思考法なのかもしれません。

日常生活の先讀み

氣儘なお一人様を愉しんでいる身の上でございますが、その毎日を過ごすに當たっては先々を考慮して生活するのが吉と出ている様でございます。

 

身近な例を挙げると、近所のスーパーの安賣りの日を把握しておけば賈い物も効率良く出來ますし、日々の献立も考え易くなります。

天氣も豫報をよく確認しておけば洗濯機を廻す日の目途を立てると共に風呂の残り湯を利用出來ますので、これもよくやっております。

 

當り前と言えばその通りなのでございますが、時には所謂「危險豫知」にも繋がって參ります。

事故防止に

一人暮らしと云うのは結構事故が起こるものでございます。

生活の全てを自分一人でやっていくので、日々の行いは自ずと全て自分側に返ってきます。

殊にお部屋のDIYなんかを愉しんでいると、その造作を造った後の事も考えておかないと危ない場合があります。

まして私は結構いい加減な部分が非常に多いので、その危險度も一際です。

 

そこで思い出されるのが「先を讀む」と云う事です。

「これをやったらこうなる」と云うのを常に考えておかないと何かと面倒が起きるものです。

そうして考えて生活する事も一人暮らしの樂しみの一つではなかろうかと存じます。

 

イマドキの人はこの思考がどうも出來ない人が散見される様であります。

…例えば寿司屋で馬鹿みたいな騒ぎを起こして途方も無い額の損害賠償を請求される人とか………。

 

生活に活きる現場の知恵

昔、職場で朝礼の際に「指差し呼称」なるものをやっておりましたが、これが意外にも有効な様でございます。

尤も、前に勤めていた會社は本來の意圖ではなく單なるお偉方が作ったスローガンを大声で叫ぶ事に終始していたので實にくだらないひと時でありましたが、ちゃんとやれば實生活の上でも大いに役立つものでございます。

よく製造業や工事現場で行われている危險豫知ですが、日常生活でも活きる6ヶ条がございます。

 

立っているものは、倒れる

吊っているものは、落下する

高い所に有るものは、落ちる

丸いものは、轉がる

動いているものには、挟まれる

回轉しているものには、巻き込まれる

 

ご安全に!

…と言うところであります。

斯くの如く心掛けて先の將棋の件の様に一歩先に起こり得る事を常に考えていたいものです。

 

 

危險豫知やります!

はーい!

立っているものは

座る!

吊っているものは

お魚!

高い所に有るものは

届かない!

丸いものは

かわいい!

動いているものには

労ってあげる!

回轉しているものには

5-56!

………。

何の問題ですか?

今日も安全第一に。

 

珈琲物語。

前回、お部屋の照明を換えた際に動画サイトで観ていた昔の珈琲のコマーシャルですが、これは實に私が20数年來探し続けていたものだったのです。

珈琲物語。

これは私が子供の頃に、かの「日曜洋画劇場」でやっていた『スーパーマン3』の番組が終わった直後に放映していたものなのです。

當時、私は幼稚園生でした。

この映画の入っているスーパーマンのビデオテープをよく観ていたのですが、このコマーシャルは御幼少の頃の私の記憶に不思議な位に鮮明に残っていたのであります。

今となっては僅かな記憶の断片に過ぎませんが、先日になって偶然にもこの動画をインターネットで見附けた際に「これだったのか…!」と暫しの呆然とした沈黙の内にその内容を鑑賞しておりました。

子供の頃の不思議な記憶

私は親しい友人からは「ハードディスク」と異名を持つ位に昔の記憶が鮮明なのです。

反面、最近の記憶に關しては實に曖昧で、ついさっき起きた出來事を忘れる位にいい加減なのですが、みんなが忘れた過去の出來事を未だに憶えているものでございまして、同窓會のブラックボックスとまで言われております。

 

そんな私にほんの僅かに残った記憶のうちの一つがこのコマーシャルでした。

もう随分前にそのビデオテープは壊れて失われてしまったのでありますが、どうにかしてもう一度観たいと思い續けておりました。

而してこのコマーシャルを幼稚園の時に数度観た限りなのに今になって出だしの音樂を聴いた瞬間にあの頃の記憶が所謂「フラッシュバック」をするのであります。

ほんの僅かな記憶の筈なのに、それが不思議と心の奥底で光り續けている様に思えてなりません。

 

これは誠に以って不思議なものでございまして、實に30年以上の時が流れている筈なのに、最後に観たのがつい昨日の様な錯覺に陥るのであります。

このコマーシャルと動画サイト内で再開した時は今までの幾十年間がいっぺんに吹き飛んだ、そんな感じさえ致します。

コマーシャルの内容

しかし乍ら、これが何のコマーシャルであったか迄は憶えていないのであります。

ただ、異國の何か不思議な景色を見て廻っていた事だけを記憶しており、それが番組なのかコマーシャルなのかは全く解っていなかったのであります。

 

今になって全てを観終えてこれが「ネッスルのコマーシャル」であった事を知った次第なのであります。

しかし、小さかった私にとってこれはまるで自分の未だ知らない世界中を駆け巡る不思議な軆驗だったのです。

 

その内容と云いますと次の通りです。

 

まず、遠大な雰囲氣の音樂と共にエチオピアの高山の様子が映し出されます。

珈琲はこのエチオピア・カッファ地方で生まれ、初めてその豆をローストしたのは山火事だったと云う傳説を傳えます。

 

その後、珈琲はアラブ世界に傳わり、1554年のコンスタンティノープル(トルコのイスタンブール)に世界で初めてコーヒーハウスが開かれたと言います。

 

それからヴェニスの商人を通じて珈琲はヨーロッパへ。

心を開く、そんな香りの中でルネサンスは花開きます。

そして17世紀、オランダ商人の手で珈琲は遂に世界の海を渡ります。

 

やって來ました日本でございます。

時は元禄。日本の珈琲元年。

初めてその味を愉しんだのは長崎奉行か或いは蘭學者だろうか…。

 

目まぐるしく世界中を駆け巡り、それは恰も珈琲の旅を自分も一緒に辿っている様でございます。

そしてコマーシャルはこう締めくゝります。

人から人へ、私達の熱い珈琲は遥かな土地から、遥かな時代からやって來た…。

…と。

 

2分程あるこの動画は紛れもなくネスカフェのコマーシャルなのです。

今でも動画サイトで「ネスカフェ 珈琲物語」と檢索すれば出てくるかと存じますが、現在の感覺では一つの番組の様にすら思えます。

 

こんな壮大なコマーシャルは現在では到底作る事が出來ないでしょう。

最早今日、低俗で低レベルなくだらない雑音と化しているコマーシャル。

昔は斯くも偉大だったのだと改めて思うのであります。

そしてその時代を僅か乍らに生きる事が出來た事はとても幸せな事だと思うのです。

嗚呼、社會は斯くも貧しくなりにけり。知性と知的好奇心は余りにも弱々しく、そして後に残るのは碌でもないものばかり。そしてその作り手もまた然り…。

1杯の珈琲に浪漫を求めて

この世界中を旅行した氣分にさせてくれるコマーシャル。

私は子供の頃に観たあの記憶をどうしても忘れる事が出來なかったのです。

そして今日、私はそのコマーシャルに流れていた一字一句、一場面それぞれを深くかみしめ、自室でお氣に入りの「カフェタイム」を愉しむのでありました。

その一杯に壮大な旅情を込めて…。

先日、山形縣某所で賈ってきた漆器のカフェトレーはその雰囲氣を大いに盛り上げるのです。

生來の旅好きである私の心に、この珈琲のコマーシャルは強く響き渡ります。

宵の空に金星が輝く頃…

お部屋にベニヤ板と物干し竿で作ったカウンターにはお一人様の樂しい空間が拡がるのです。

今では珍しいカフェロワイヤル

角砂糖にブランデーを注いで火を点けるアレです。

数年前、これがやりたいが為に合羽橋で1本百数十圓のカフェロワイヤル用のスプーンを賈ってきたものでした。

しかし、その投資がこうした日々の何物にも代え難い愉しみに化けるのです。

嗚呼、遥かな時間と空間を旅する不思議な飲み物。

上質を知る人の…

珈琲は今日も美味しいのであります。

照明を変えると…

今週のお題「変わった」

 

 

この程、お部屋の電灯が切れたので新しいのを購入致しました。

天井は羽目板風

この様に私の部屋は元和室であった事が見て判る羽目板風の天井。そして壁面は廻り縁附きの眞壁…。

床面こそフローリングでありますが定期的に茣蓙を出して和室にしてしまっています。

その方が居心地が良いからです。

そこでこの際照明もそれに合う様に致したく、斯くは賈って參りましたる品物がこちら…。

〽明るいナショナル~♪明るいナショナル~♪
(…一寸古いかな……)

圓形蛍光灯も電球色の物を選ぶのでありました。

温かな光に包まれて

これまでの電灯が所謂「螢光灯色」であったのでこれに換装してからは途端にお部屋の印象がガラリと変わりました。

今迄の光が謂わば「シャープ」な感じと申せばこちらは「ほんわかとした」感じなのではなかろうかと存じます。

作業効率の明度から申せば螢光灯色に軍配が上がるかと存じますが、こちらの電球色の温かな色合いの光と云うのは不思議と落ち着くものでございます。

一寸昔を思い起こして…

電球の光は昔を思い起こさせます。

昔の珈琲のコマーシャルを「レトロテレビジョン」で観乍ら午后のカフェタイムと洒落込んでおりました。

豆はケニヤAA。お茶請けは甘食。こう見えても分類上は「和菓子」らしいのです。

曇天に乾杯

折しも外は雨降り。そんな午后のひと時に温かな光は優しく照らされます。

変化を愉しむ

私の部屋の照明器具には残念乍ら調光機能がありません。

従ってこの様に螢光灯そのものを替えるしかないのでありますが、定期的にお部屋の光を変えてみると氣分も一新するものでございます。

氣は心と申しまして、新しい光の下、實に良いリフレッシュになるのであります。

この光がマンネリとしてきた頃には螢光灯色に戻してみると、また日々の暮らしもメリハリがつくのではなかろうかと存じます。

 

 

…灯具のカバーの中には小さな虫の死骸が色々ありますので、是非この機會にお掃除をしましょう………。

お彼岸に

お題「ゆっくり見たい映画」

 

はや春分になりにければ今日はお彼岸の中日であります。

牡丹餅などを食べ乍ら私は或る映画を鑑賞しておりました。

お彼岸です。

暑さ寒さも彼岸までと申します通り、段々に暖かくなって參りまして櫻の花もだいぶ開いてきました。

殊に今日は野球の國際大會に於いて日本代表チームは劇的な勝利を飾り、今宵の酒もまた一段と旨し旨しなかなかであります。

 

さて、そんな今日と云う日に観た映画と云うのがこちらのビデオテープであります。

まだまだ現役のビデオテープ

ずっと昔に實家で録画したものです。

ウチでは未だビデオテープが現役で動いております。

やはり昔の作品はアナログで視聴してこそ味のあるものです。

 

最近はレコードも密かなブームになっている様でございますが、このビデオテープと云う奴はイマドキのDVDとは違い、少々の傷が附いてもビクともしないのが最大の長所であります。

 

確かに画質の面に於いてはデジタル媒軆に後れを取りますが、私はそこまで綺麗な画質を求めておりませんし何が寫っているか判れば結構なのであります。

寧ろ、このアナログならではの「温かみのある画」と云うのは綺麗過ぎるデジタルでは不可能なものだと思っております。

 

こう云うものを観るのは今となっては貴重な軆驗なのかもしれません。

有り難く視聴する事に致しましょう。

昔の映画は「昔のテレビ」で…

1984年公開の東映作品『空海』と云う映画。

わざわざテレビにこうした飾りを附けるのがポイントです。

自作の「レトロテレビジョンフレーム」は今日も大活躍であります。

人間の心とは

さて、この映画に於いて最も印象に残り、且つ勉強になったのは物語終盤の事です。

北大路欣也さんが演じる空海が弟子達に語りかける場面です。

往時の北大路欣也さん

かいつまんで言うと次の通りです。

 

人の心は幾つかの段階があり、第一の心は欲望や本能の赴く儘に働くものだそうです。

人も生き物である以上、様々な欲求があるものであり、それからは避けられない宿命にあると云うのです。

そして、これらを受け入れる事を説いています。欲望もまた仏の心だと言われるのです。

 

色々な欲望は往々にして惡しきものと捉えられておりますが、これらを受け入れて上手に附き合っていく事が人間の道であると、至極當然の事の様でございますが、これがどうしてなかなか巧く出來ないものです。

 

殊に今日ではそうしたものを矢鱈に封じ込める氣風が激しい様でございまして色々なところがおデリケートになり過ぎている嫌いがある様でございます。

 

「ンマー!危ないザマス!知らなくてもいいザマス!教育上よろしくないザ~マス!!」

…とか申して何でも遠ざけようとしているオトナが多い様でございますが、この色々な人間の心、當り前の様に動くこれらと「うまく附き合っていく」と云う事が今日では殊更に難しい様に思えます。

人は生き乍ら仏になる

弘法大師様は語りかけます

更に北大路欣也さん、もとい空海和尚は語りかけてきます。

 

人はやがて色々な教えに出會い、自分が救われたいと思う様になるのです。

これもまた至極當然の事の様です。

今の人々の多くに當てはまるのではなかろうかと存じます。

 

何教であろうと自分が救われたいと思うから信仰したり神様や仏様を拝む様なものです。

 

弘法大師様は續けます。

更に人は自分が救われ、他人をも救いたいと思う様になると言うのです。

そして遂には仏の境地に達すると結んでおられます。

 

これが生き乍ら仏になると云う事なのかと、恰も大發見をしたかの如く氣附かされるものでございました。

 

なるほど、人を救うのが仏様であるならば自分が誰かを救いたいと思い、そうする事が出來る様になれば、それはまさしく即身成仏なのではないでしょうか。

お互いに救い救われんと欲す

どうやらこれが真言密教の神髄なんだそうです。

もしこの事をどんな教えに基づいても結構なので出來る様になれば、きっと住み良い世の中になるのではないでしょうか。

 

我々は今は無理でも、いつかこう出來る様になるべく日々を努力してみるのもまた自分の幸せの為なのではなかろうかと存じます。

はじめは自分のごく近くに居る大切な人の為に、何か自分が出來る事を探してみるのも良いかもしれません。

好きな人が幸せになる事は嬉しい事です。嬉しいのは幸せな事だと思います。

「情けは人の為ならず」と云う言葉がある通り、自分の幸せの為に人の幸せになれる事を目指してみるのも人の道かもしれません。

 

よく、自分をして神だと思い込んでいる(一寸おかしな)人が時々現れますが、そう名乗るからにはこれ位の事をしてみる事です。恐らくは出來ないかもしれませんが…。

名作の余韻に浸って…

この作品は前賣券を真言宗の檀家さん達が全て賈った關係で莫大な収入が約束されていただけに、かなり大掛かりな映画となっております。

多分、こう云う映画は様々なところが安っぽくなった現在ではもう作れないのではないかとも思えます。

 

その映画も最後は弘法大師様が西方浄土に旅立ち、現在(昭和59年當時)の高野山が寫し出されるところで終わりを迎えます。

最後の場面でお遍路さんの中に出演者の方々が混じっているところ(映画の中で輪廻轉生された様にも受け取れます)や、「協力」のクレジットの最後に「天台宗」と書いてあるところがまた味な演出です。

そして、映画を観終えて余韻に浸っていた矢先…

嗚呼、懐かしき…

空海』に續いて凄い番組が入っていました。所謂「ビデオテープあるある」ではないでしょうか。

超豪華な出演者達。水前寺清子さんもお若い事……。

あの頃は色々なところが元氣だった様です。

賈うからには多機能

お題「ささやかな幸せ」

お題「便利家電」

お題「これ買いました」

 

9年前の丁度今頃、私は來たるべき一人暮らしの日々に備えて色々に家電を賈い揃えておりました。

そこで一つ氣を配っていた事がありました。それがこの表題の件であります。

出來る事はより多く

豫算も限られており決して贅澤が出來なかったのですが、その中でもなるべく機能の多い物を選んでおりました。

出來ると云う事はそれだけで暮らしの巾も廣がっていくものだと思います。

 

特に今日では物価の高騰等、色々なところで暮らしに制限のかかりつゝある世の中でありますので、いつどうなるか判らないと言っても過言ではない様に思えます。

色々な事が有るであろう一人暮らし。いざと云う時に出來る事が多いに越した事は無いと思うのです。

 

勿論、それにこだわればその価格も天井知らずになります。

或る程度の妥協は當然の事でありますが「あと一息頑張れば出せる豫算」はここで使うべきだと思っておりました。

この場で豫算を切り詰めるのは易い事でありますが、その時点で新生活の巾は狭められる事を意味するのではなかろうかと存じます。

 

今ここで幾らかの違いでそのお金を残す代わりに今後の生活の可能性を犠牲にするのを良しとするか否かの判断は非常に難しいところでありますが、この節約をせねば新生活に壊滅的な支障をきたすのでなければ、なるべく諦めたくないと云うのが私の考え方でした。

まさにこの一言

諦めなくてよかった生活の樂しみ

多少の出費を余儀なくされた代わりに多くの樂しみを得られたと思えばその分の元は充分に取ったものだと思っております。

冷凍庫はやはり便利です。

例えば簡單な例では冷凍庫の附いた冷蔵庫を賈うと云う点であります。

冷蔵庫だけの物はそれに比べれば格段に安いのでありますが、やはり長い目で見れば冷凍庫があった方が便利ですし、實生活に於いて冷凍食品やアイス、氷等を食べられる点はとても大きいのです。

この「長い目で見る」と云う事がどれほど大事な事か改めてこの文明の利器を見るにつけ思うのであります。

同じくオーブンも…。

電子レンヂもオーブンの附いていない品物の方がずっと安上がりですが、いざこれが使えると樂しいものです。

トーストが出來るのは勿論ですが、時としてこう云う物を作れるのが良いものです。

肉を焼こう!

これは何年か前にオーブンで作った原始肉です。

何かと気儘な一人暮らし。毎日は使わない機能でも時としてこう云う樂しみが出來るのはとても重要です。

思い出の原始肉 - 一人を楽しむブログ (hatenablog.com)

↑この原始肉についての詳しくはこちら

 

魔女の宅急便』を氣取って…。

また、かの有名な漫画映画に出てくる「カボチャとニシンのパイ」なんかも意外と簡單に作れますし、やってみると面白いものです。

こうした樂しみは生活に花を添えますし、これこそが一人暮らしの醍醐味でもあります。

私このパイ嫌いなのよねー。|くつろぎぶた|note

↑このパイについての詳しくはこちら

 

人參とブロコリーも仲良く

また、温野菜の機能等はこうした料理をより簡單に作れる様になりますし熱燗やホットミルクなんかを作る際も便利です。

日々、料理をする身の上としては小さい様で意外と大きな部分なのです。

 

そして私の最もお氣に入りがこれです。

炊飯器

何やらお札が附いているのを氣にしてはいけない。

嬉しい機能

この炊飯器、パンに温泉卵に豆腐迄作れる優れものです。

これらの物が自分で作れると云うのは重寶なものです。

炊飯器でパンを焼く之圖

兎角單調になりがちな一人暮らしでも、時にこうしたメリハリがつくと樂しいものです。

この樂しさを享受出來るか否かが樂しい毎日か否か、強いて言えば日々の幸福の身近な分岐点ではなかろうかと存じます。

尚、このパンは最終的にこうなりました…。

丸いパンは、やはりこうでなくては…

炊飯器の釜の大きさですので、それなりに食べ應えがありました。

こうした遊び心も「出來る」と云うところから始まるのかもしれません。

「賈ヒ占メ」ニモ負ケズ「パンデミック」ニモ負ケズ - 一人を楽しむブログ (hatenablog.com)

↑このお釜で作るパンについての詳しくはこちら

 

温泉卵作り

温泉卵がいつでも簡單に食べられると云うのはありがたいものです。

一度作っておけば数日は冷蔵庫で取っておけます。

温泉旅行に行った際の旅館の朝食を思い浮かべて出してみるとなかなか良いものです。

酒の肴にも…

いつの日かまた卵の價段が安定したらやろうと思います。

 

豆乳とにがりを用意して…

豆腐も最早自作する時代かもしれません。

釦一つで簡單に

材料さえ有ればいつでも作れると云うのが嬉しいところです。

初期費用はかかりますが、自作した方が結果的に出費も抑えられる点も侮れません。

出來上がり

大豆の風味が濃厚な一品が出來ました。

藥味を添えて…

一寸した一品に最適です。

今宵の酒も旨し旨しなかなか…

これは数年前の夏の様子でありますが、機能が有れば炊飯器一つでも料理の可能性はそれ以上に大きくなります。

基本的にお釜に入れておくだけで出來るので樂なものです。

出來るって凄い!

何事も出來てこそ樂しめるものがあるのではなかろうかと存じます。

一時の出費を抑える代わりにこれら樂しみの可能性を犠牲にするのは余りにも勿軆無いと思うのであります。

その時は使うつもりの無い機能でも全くこの先全然お世話にならないとも断言出來ない限りは「長い目で見る」と云う事を思い出してみると良いかもしれません。

 

日々を過ごしていると色々な事に挑戰してみたくなるものです。

それはとても素晴らしい事なのですから、その可能性を大いに開花させるのが「幸せなお一人様」だと思うのです。

 

今日の社會が貧しくなったとの印象を方々で受けますが、こうした事を忘れてしまったのも一因ではないでしょうか。

今の日本人は安ければどんな粗惡品にも飛びつく惡しき習性が目立つ様になりましたが、ほんの少し頑張れば出せる豫算を輕んずべからずと云う事を今一度思い返してみても宜しいのではなかろうかと存じます。

その幾らか多い出費が致命的でない以上、それによって得られるものは意外にも大きいものかもしれないのです。

カエルを食べたくて

肉の日

今日は2月9日。

その語呂から「肉の日」とされている様でございますが、近所のスーパーでも肉の特賣をやっておりました。

然らば、今日の夕飯は肉料理に致した次第であります。

 

こう云う日にちの語呂合わせを日常的に愉しんでいる身の上でございまして、事ある毎に「記念日」を設けているのは前回の記事にてお話しした通りでございます。

自分だけの記念日 - 一人を楽しむブログ (hatenablog.com)

ジビエ好き

實は私はジビエ料理が大の好物であり、イノシシやシカは勿論、クマやダチョウ、果てはカンガルーやワニなんかも食べて參りました。

勿論カエルも大好物であり、酒の肴によく脚の丸焼きを食べたものです。

ナマズにスズメの焼き鳥

幸運にも近所にそう云うのを専門に出してくれる呑み屋がございまして、いつもごく稀に時々遊びに行くのでございます。

 

しかし、嘗ては日本でも廣く出廻っていたカエルも今日ではほゞ入手不可能となっております。

残念ではありますが、あの味を家庭で愉しむのは無理なのでございます。

似た様な物を代用する

しかし無理ならば無理なりに工夫すれば、いさゝかでも氣休めになるものでございます。

そこで本日はあのカエルの味を家庭で出來る限り再現してみる事に致したのでありました。

 

カエルの脚は味、食感共に鶏肉のささみに非常に似ているものでございますので、早速に鶏ささみを賈って參りました。

特賣品も價上の最中…

以前の底價を知っている身にとってはこの價段は納得がいきませんが、それでも今日と云う日を愉しむには致し方無い事でございます。

 

昔から不足を補う手段と致しまして「似た様な何かで代用する」と云う事は非常に有効な方法でありますが、それは今回の様な食事にも極めて有用なのでございます。

この「代用」と云う事は色々に日常生活の不可能がある中に於いて應用が利いてとても便利なのです。

 

しかし、嘗ては食肉の代用として用いられたカエルの代用にまた食肉を使うとは何とも皮肉なものです。

カエル風焼きささみ

ささみは輕く塩・胡椒を振って下味を附けます。

あとは油を敷いた鐵板で丸焼きにするだけです。

油は牛脂を使うのが宜しいかと

謂わば「ささみのステーキ」なのでありますが、普段は水炊きの具になる事の多いささみもこうして食べてみるとまた良い物です。

ステーキ皿で焼くのが旨さを出す秘訣

ニンニクと一緒に焼いて最後に焼肉のたれを少し振りかけます。

じゅーじゅーと鐵板は威勢の良い音を立てます。

やはり肉を焼くにはこうした物を活用するに限ります。

合羽橋で賈ってきたステーキ皿。持っててよかったと思えるひと時です。

今回は「ステーキ」ではなく、あくまでも「カエルの丸焼き」のつもりで作ったのでナイフとフォークではなく箸で食べるのです。

 

味は淡泊で脂身も少なくとてもあっさりとしています。それが良いのです。

カエルの脚もこんな感じだったと思いつゝ、あくまでもカエルだと思って食べるとまた美味しさもヒトシオです。

珍しい食べ物は味をよく憶えておく

普段なかなかお目にかゝれない食べ物はその味をよく記憶しておくと便利なものです。

「あの食べ物に似た味」とイメージしておくと似た様な物で代用出來る様になります。

そしてその味をご家庭で再現出來る様になるのです。

 

色々な食材の味を知る事で料理の巾も拡がっていきます。

これには各自色々に研究と工夫が必要でありますが、その一環としてジビエ料理等を食べてみるのもまた樂しいものです。

日々の暮らしの食事はこうして樂しんでいる今日と云う日。

次の肉の日は11月29日の「良い肉の日」になりそうですが折角の自炊、こうして愉しむのもまた一興であります。

自分だけの記念日

1月23日

今日は1月23日。

これは1年で2度しか無い123と数字の並ぶ日にちなのであります。

 

然してこう云う日は何かにかこつけて特別に思う様にするのが私の過ごし方であります。

…ちなみにこの画像は私が勝手に作ったオリジナルキャラクターの日めくりであります。

玄關に飾ってありますが、こうして1日1日が訪れるのを實感すると1年間に味わいが生まれてくるものでございます。

 

ただ漫然と1年を過ごしていくのは余りにも勿軆無い事でありますれば、こうして1日1日を意識して過ごしている身の上でございます。

特別な事をする日

この1月23日と云う日は歴史を辿れば八甲田山の遭難事件(明治35年)があった日として個人的に有名な日に思っておりますが、何せ1年間に2度しか無い「123の日」の日として特別な思い入れがあるのでございます(次回は12月3日)

 

こうした1日をただ普通に過ごしてしまうのは余りにも惜しい氣が致しますものでございますので、何か特別な事をして過ごしてみようと思うのであります。

近所の居酒屋にて…

そこで今日は週ハナにも關わらず、近所の居酒屋で一杯やっておりました。

これはそこで愉しんだスズメの焼き鳥と豚レバーともつ煮を肴に日本酒を一杯やっているところです。

スズメの焼き鳥は私の大好物でパリパリとして旨いものです。

今日では出してくれるお店も少なくなりましたが、今でもこうしてやってくれる店を幾つか知っていると日常を樂しく過ごす上でとっても有意なものでございます。

 

ちなみにこのお店はジビエの料理を出してくれる数少ないお店でございまして、私の好物のカエルやらコオロギやらナマズやら何やらを出してくれる非常にありがたい呑み屋でございます。

今回はたまたま入荷していたワニとカンガルーを食してみた次第でございます。

旨いんですよ。本當に…!

 

こう見えても地元の友人からは「バキュームさん」とか「ゲテモノ屋さん」と呼ばれる位に美味しいと思った物は何でも食べる習性があるものでございましてクマやらムカデやらマンボウやらサソリやらを食べてきたものでございます。

こう云った物は結構旨くて酒に合うものなのです。

記念日を設けてみる

…さてそんな事でございまして、今日と云う日を特別に思っている次第でございます。

他にも自分にとって特別だと思う日を幾つか持っているものでございます。

日常・世間一般としては、かの『不思議の国のアリス』宜しく「何でもない日」として過ごされている日でも自分にとって特別であればそれは立派な「記念日」なのであります。

 

例えば自分の誕生日などを思い浮かべれば解り易いかもしれません。

こうした自分だけの「記念日」を持っておくと日々を過ごすのが樂しくなるものでございます。

〽今日は何の日?フッフ~♪

その昔、お昼にやっていた番組でこう云うコーナーが有ったのを覺えておりますが、1年365日、特に何か無くとも自分だけで樂しめる日を幾つか考えておくと日々を過ごすのも樂しくなるものでございます。

例えば…

 

 

11月26日。

これは「良い風呂の日」として今や日本中の風呂好きに認知されつゝある日にちでございますが、この日に何かお風呂に關して特別な事をしてみるものです。

11月26日は、やはりお風呂で…

お風呂の繪 - 一人を楽しむブログ (hatenablog.com)

當ブログでも愉しませて戴いておりましたが、つい最近ではこう云う物を作って「良い風呂」の日を愉しんでおりました。

お風呂のタオル入れ

銭湯でお馴染みの「松竹錠」を手に入れてこうしたDIYを愉しんでおりました。

今年も良い風呂の日|くつろぎぶた|note

つまりはこうしてその日に因んだ何か面白い事を思い浮かべるのが肝要でございます。

 

また別の日では11月29日。

この日は「良い肉の日」なので久々にステーキを焼く事に致しました。

良い肉の日|くつろぎぶた|note

年に幾度と無いステーキ…

こう云う特別な献立を出す日としてこの語呂合わせは面白いものです。

 

更に前回の「123の日」となった12月3日は…

赤提灯で一杯…

こうして「ついうっかり賈ってしまった赤提灯」を出しておうちで一杯…。

演歌を流して味わうそれは眞に格別のひと時…。

折角の「記念日」ですから何かやる様に致しております。

1,2,3だーー!|くつろぎぶた|note

 

勿論、季節の節目も大事に祝っております。

3月3日は雛祭り

こうしてその時に応じた「特別メニュー」で食卓を彩ります。

イマドキの日本人に足りないものとはこう云った事ではないかと個人的に思っております。

同じ様に正月や節分も愉しむのが宜しかろうと存じます。

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こうした「年中行事」を自分なりにやってみると中々面白いものです。

一人暮らし記念日

同じ様に自分だけの「記念日」と云うのを設定してみます。

この日は私が一人暮らしを始めた日として毎年大事にしている日なのでございます。

365日の内の大事な日

1年間、1日1日は何の問いかけも無く過ぎていくものです。

然らば、その日々を少しでも樂しく過ごすには自分から語り掛けるしかないのであります。

即ち、自分にとって大事な日、注目すべき日、或いは数字の語呂合わせ等、何でも良いので何か1年の内に「特別な日」を設けてみるとただ日にちが過ぎ行く1年でも樂しいものです。

古くは平安貴族が同じ様な事をして色々に有意義なひと時を過ごしていた様に、現代でもそれが可能だと思っております。

日本人とは誰しも時節を樂しむ事が出來る民族だと思っております。

 

勿論、何か特別な事を行うにはそれなりに手間がかかるものでございますが、今日の様に特別な気持ちで居酒屋に入り「鳥渡一杯」やるだけでも充分「特別なひと時」になるのだと思います。

なぜならば、自分にとって今日と云う日が特別であれば、何氣無い取り組みでも心に何かを投げかける事があるかもしれないからです。

それが大事なのです。その投げかけたものを大事に取っておくものです。

いつかきっと樂しかった思い出として、今日を生きる力になる事だと思います。

 

何の日がどう特別なのかは人それぞれです。

さすれば即ち、自分だけの「特別の日」を持っても良いのであります。

誰が何も思わなくても、この日が自分にとって思い入れが出來ればこんなに樂しい事はありません。

1年とはこうして過ごすと案外面白いものです。