櫻も散り、愈々新緑の季節になろうとしています。
外を歩けば木々の青さはまた一層鮮やかにして心地よい初夏の風は色々な花の匂いを運んでくる様でございます。
石垣の上に生い茂る木々。
鳥渡見た感じがイマドキの人は某「天空の城」とか言うそうでございます。
昨夜遅くは雨が降った様でございまして葉の上の雫に雨上がりの公園の澄んだ空氣を感じます。
空氣を感じる能力
こうした外の空氣と云うのは色々な匂いがするものでございます。
この時期は日差しも暖かく風も穏やかにして色々な花も咲き、それらの香りと下草の若葉の匂いが一人暮らしを始めて間もない頃のあの高揚感を思い出させます。
こうした「匂い」を感じる事が出來ると自ずと感受性が研ぎ澄まされて日常の風景にも様々な癒しが得られるものでございます。
それはどこか懐かしい氣持ちや新鮮な感覺、所謂リラックス効果、或いは氣分の高鳴り等、様々でございます。
特に道具もお金も必要ありません。一寸外へ出て深呼吸をするだけでこうした良い心地がするのですから、これは素晴らしい事なのだと思います。
こうした「空氣を感じる能力」は會得しておくと何かと便利です。
氣持ちが沈んだ時にも手輕にその恢復を圖る事も出來るのです。
また、その安らぎが新しい自分の力を呼び起こす事でございましょう。
實はこう云う能力は一朝一夕に具わるものではなく、或る環境下に於いて感覺の力の特に優れたる時を過ごす事で身に附くものだと言われております。
殊に幼少期のこうした經驗が非常に影響しているとも考えられておりますが、この「感じる事が出來る」と云うのはとっても大事な事だと思っております。
これは人によっては全く何も感じないどころか察知すら出來ない人が居るのも事實です。
これだけ確かに風に乗ってくる花や草の香り、雨露の匂いや澄んだ空氣の美味しさ、陽射しのもたらす季節の雰囲氣を感じる事が出來る一方、全く以ってそれらを認識出來ないでいる人も居るのです。
これはもう人それぞれの環境が違うのですから仕方が無いのでありますが、少なくとも私はそれが「出來る」と云う事を今は大いに幸せに思うのであります。
雨の匂い、虫の声
日本人は諸外國の人と比べてその辺が敏感であると云う話があります。
具体的な例として「季節の空氣の違い」が解る事、「雨の匂い」を察知出來る事、「秋の虫の声」を明確に聞き取る事が出來る事等が挙げられております。
日常のごく當り前の事の様に思えるのですが、これが「特殊能力」として捉えられている事も事實なのです。
然るに、日常これらを感じる事が出來るのであれば、その大切な能力を大いに活かし、これらを愉しむべきかと存じます。
もしも或る特別な人だけが享受出來る心の安らぎがあるのだとして、それを手にする事が出來るならば、それは實に素敵な事ではありませんか。
これは普通は見えない「トトロ」の様なものと触れ合うことが出來た様なものでございまして歌の文句にもある「もしも會えたなら不思議な幸せがあなたに來るわ」と言うところであります。
或いはあの漫画の「トトロ」とは人間の感受性が見出す自然の恵みを子供でも解り易く具現化しているのかもしれませんし、また自然に宿る日本の八百万の神が形を変えて顕れているのかもしれません。
いづれにしても、我が民族は古代より自然の恵みと共に生きてきた種族だと思っております。だからこそこの國には大いなる自然と共に八百万の神がいらっしゃるのだと思います。
その神様の恵みが自然のもたらす心の安息なのかもしれません。
それと触れ合う事の出來る事、そこから心の安らぎを感じる事が出來る事は間違い無く何かの力になるのだと思っております。
例えば地元の驛のこの見事なツツジも視覺から美しさを視認する以外に周りの空氣からより深く美しさを感じる事が出來る様になるものです。
また、画像右側の大きなツツジは大昔にこの驛の近所の植木屋が競って植えた職人それぞれの自慢の逸品だと云う事を知っているとまた面白いものです。
(ちなみに左側のはつい近年、驛舎増築工事の折に伐採してしまった株の代わりに新しく植え直した物)
一つの物事をより多く多角的に愉しめる様になります。
心は捉える、幸せの豫感
鳥渡散歩に行くとこうした緑の風が心地良い季節になりました。
今時分にこうした風景を見ると樂しかった子供の頃を思い出すのです。
子供の頃に毎回樂しみに観ていた『コナン』です。
私にとって「コナン」と言えばこっちの方なのです。
演出に高名なお二方が揃い踏みなのも昔は豊かな時代だった事を物語っている様です。
少し話が逸れましたが、風景とその空氣が投げかけるものは心に作用して幸せを感じさせるのかもしれません。
そんな事を思い乍ら、散歩から帰ってきた午后のひと時をバルコニーで珈琲でも飲み乍ら愉しんでいたのでありました。
日々の暮らしでこうして安らぎを感じる事が出來るのは幸せな事です。