3月もとうとう末日です。
明日は必然的に4月1日でありますが、新たな年度を迎える場合が殆どです。
私の勤め先は6月が決算なので4月1日と云う日に特別な氣持ちは湧かないのでありますが、この3月31日の今日と云う日は特別な思いがあります。
十数年前のあの日
この日は特に卆業の時期になりますれば特別な思い出が澤山あります。
特に大學卆業を迎えた十数年前の事であります。
次の日が入社式でありまして、遂に學生と云う立場ではなくなる瞬間でした。
その最後の日、今でも忘れ難くよく覺えているものです。
この日はいつもの様に起床し、いつもの様に朝食を濟ませてからいつもの様に午前中をのんびり過ごしておりました。
最早卆業式も濟み「大學生」の肩書の意味はその名称を残すのみとなっておりました。
天気は曇り。これと言って何も特別な事はありませんでした。
ところが午后になり、徐に寫經などを始めました。
前々から最後の一日は何か特別な事をやるつもりでおりましたが、それが寫經だったのです。
般若心経の278文字を1時間程かけて寫しておりましたが、この時の寫經は今も實家の經机に保管されております。
思えば幼稚園からこの日迄、それは經文の一字一句の如く、様々な出來事があり、そしてそれは無常のもの、即ち「空」であったのだと思うところ、曲がりなりにも學生として「悟り」の境地に達したのではなかろうかと今になって思うところであります。
それ以外はこれと言って何も無い至って平凡な一日でしたが、次の日の準備をする辺り「嗚呼、終わるのだな…」と感慨に耽ったものでした。
就寝前にカーテンを閉める前に見た夜空。學生時代はまだまだ遊んでいる時間に灯を落とし、時の流れの不思議さを思い乍ら床に就くのでありました。
昔を思い出してみる
時にこうして昔の事を思い出してみると良いものかもしれません。
特に樂しかった思い出等、良い意味で心に残っている事に時々思いを馳せてみると氣持ちの「リフレッシュ」になるのではなかろうかと存じます。
人生には色々な出來事があり時として惡い事も起こるものでしょう。それで當り前なのです。
しかし少しでも良き事が有れば、いつでもそれを呼び出せる様に、忘れない様によく思い出す事が出來れば力が湧いてくるものだと思います。
決して昔を懐かしみ、今に悲観するのではなく「こう云う良い事が自分には在ったのだ!」と恰も誇る様に思ってみるのが正解だと思います。
勿論、思い出でありますから、誰がどうやっても、それがもう一度繰り返して起こるものではありません。過去は戻らないのだからこそ思い出は美しいのだと思います。
それも「ヴィンテージ」の如く、時の流れがその美しさを一層醸し出すのが面白いところです。
その思い出を大切に出來るものが或いは幸せな生き方なのかもしれません。
思い出の多寡ではなく、その自分なりの意義が大事なのだと思います。
勿論、多いに越した事はありませんが、それもこの様に様々です。
ただ自分にとって大切なものがあれば、それで良いのだと思います。
今、そして次の瞬間も思い出になり得る事
数十年前の今日、それはまさに今と云う瞬間でした。つまりはその時点に於いて現在なのです。
それがこの様に美しきものに変わるのですから不思議なものです。
然らば今この瞬間、その「仕込み」をしてみるのも面白いかもしれません。
「今この瞬間」がどう化けるか、それは時が經ってからのお樂しみと云う訳であります。
こうしたものを多く持てる様に心掛けて日々を過ごしたいものです。
さて、明日は4月1日です。
何か嘘でも考え乍ら迎える事に致しましょう。