一人を楽しむブログ

孤独ならぬ御一人様を愉しむ為の備忘録。

一人暮らし10周年

この度、遂に一人暮らしも10周年を迎えました。

そして今日、一人暮らしで初めて朝を迎えた日から10年が經ちました。

 

私は10年前のあの日の事を未だ忘れた事がありません。

一人暮らし初の食事は「肉じゃが」でした。

そしてその翌日、窓から射す明るい朝日。自分だけの空間で迎えた初めての朝の事を。

 

あの感動から早10年。長い様で短い年月でした。

夢の様な時間

全てはここから始まった…

この手作りの囲炉裏から全てが始まりました。

賃貸マンションの1Kのお部屋を借りて、少々造作を施して自分だけの空間を演出しての暮らしは胸が高まる幸せな時間でした。

始めての食事

10年前の4月22日夕刻。

これが一人暮らしで初めての食事となりました。

 

「肉じゃがはあらゆる物の基本」

かの『マサルさん』も言われている通り、この料理から自炊の基礎を學んでいきました。

今では當時とは比べ物にならない位に巾廣い料理を作れる様になりました。

10年後の今

この日も、あの時と同じ「肉じゃが」を作りました。献立も當時と同じご飯にサラダです。

當時は1時間位かかって作っていた料理も今ではその半分未満の時間で出來る様になりました。

この様に一人で暮らすと云う事は色々な面に於いて自身の成長につながるものだと思っております。

炊事洗濯、その他諸々の事を自分の獨力でやっていく内に色々な事が解り出來る様になるのです。

そしてその中で澤山の思い出が出來ます。

そのどれもが今思い返してみてもとても樂しく幸せな時間だったのです。

 

それは自分の為に過ごしてきた時間に他ならないからなのです。

自分の事を自分で完結出來る様に

自分の力だけで生きていく事が出來ると云う事は大切な事だと思っております。

生活の為に必要な事は身に附けておくに越した事は無いのです。

その為には或る程度の時間が必要です。

この貴重な時間が「一人で居る時間」だとすれば、これをを持てた事はとても幸運な事だと思っております。

また逆に一人で過ごすとはこうでなければいけないのだとも思っております。

折角一人で全てを出來得る環境下にあるのですから、そこで何らかの研鑽をしなければ即ち無駄と云うものだとすら思えます。

 

日々の暮らしを普通に過ごしていくだけでどんどん出來る事は増えていきます。

また、その知識の蓄積も見過ごしてはおけません。

このブログのテーマ「一人を愉しむ」とはこうした實入りがあってこそです。

その中でどんどん拡がる自分だけの自由を満喫出來ればどれほど素晴らしい事でしょう。

一人を蔑まない事

よく一人で居る事を「ボッチ」等と云う表現で惡し様に扱う場面がありますが、それは「一人」と「孤獨」を混同している事による或る種の認識の於ける瑕疵だと思っております。

 

確かに私は日常の大部分を一人で過ごしておりますが、幸いな事に澤山の友人知人に恵まれている事を知っています。

そしてその存在はとっても大事なものなのです。自分にとっては無くてはならない存在なのです。

 

即ち、物理的に於いて一人で居る事は何ら蔑まれる事ではないと考えているのであります。

敢えて矛盾する言を以ってすれば「一人を愉しむには澤山の仲間が必要である」と言うところであります。

この掛け替えの無い存在によって「一人」が「孤獨」ではなく「孤高」や「獨立不羈」に成り得るのであります。

 

何事も相手あっての事であると云う社會の理屈を理解していればこそ、この「一人の時間」と云う愉しみが生まれるものだと思っております。

それは寧ろ一種の「ステイタス」でもある事かと存じます。

 

これ即ち「集團で巧く過ごすからこそ一人の時間に価値がある」と言うところであります。

かの有名な國民的RPGの文句を引用するとすれば即ち「光があれば闇もまたある」といった表現の如く、その正軆は表裏一軆なのでなかろうかと存じます。

お一人様に乾杯

「人は一人では生きていけない」…と何かとよく言われておりますが「一人で何とかしなければいけない時もある」と云うのが私の持論です。

 

無論「獨り」では人間と云うものは立ち行かないものです。

しかし「一人」と「獨り」は似て非なるものだと思います。

それさえ理解していれば「一人」で居る時間は何ら惡しきものではありません。

自分は多くの人達とオカカワリになってこそ一人を満喫していると云う事實を今とても幸せに思っているのであります。

乾杯。今日と云う日に

プライベート〇〇を考える

よくカネモチが「プライベートオフィス」やら「プライベートビーチ」やら何かと色々と「プライベート」を愉しんでおられますが、それと同じ様な事が愉しめるのです。

即ち、お一人様は自分の周りのものが須らく「プライベート」になるのであります。

 

それを演出するにはいさゝか要領がいりますが、一寸した工夫の下に自分だけの贅澤な「プライベートスペース」は生まれます。

この晩酌の1枚もそうです。

私だけの「プライベートバー」で一日の終わりに一杯やるのであります。10年目の今日と云う日を祝して…。

世界でたった1本の「私の酒」

これは私の地元の親友が私の為に作ってくれた日本酒です。

そしてこのグラスもこの人が特注で作ってくれた大切な寶物です。この素敵な品物で晩酌の1杯を自由に愉しむ事が出來るのです。

この味わい、この愉しみ、これらがすべて自分のものです。

お氣に入りの音樂を流し、自分だけの空間で傾ける酒はどんな逸品よりも贅澤に思えます。

 

この「Bar Duck」と云うのも自分の部屋にDIYで作ったバーカウンターに附けた名前です。

今では地元のドラゴンボール好きの常聯さんにとってすっかりお馴染みになっております。

hitoria-juvey-ucchiyi.hatenablog.com

自分だけの時間と空間そして愉しみ

今この場の全てのものが私の為に存在しています。

そこには多大な樂しみがあるのです。

その樂しみを以って日々の暮らしに幸せを求めていき明日を生きる糧に出來ればもっと充實した生き方に繋がっていくのではなかろうかと存じます。

 

一人暮らしを始めて10年。

これからも、もっと自分なりの愉しみを見出して本當の意味で日々を豊かに過ごせたらと考えております。

色々あったが樂しかった10年間に乾杯

一人だけの自由。

この10年間、當たり前の様に過ごしてきた毎日が今とても嬉しく思っているのであります。

今宵のお風呂

お風呂が沸いたのでこれから入ってくる事に致します。

春の残照を愉しむべくお風呂には櫻の風景のフィルムが貼り附けてあります。

(この風景のフィルムがカレンダーのものであったのは有名な話…)

hitoria-juvey-ucchiyi.hatenablog.com

 

大好きな温泉の素を

自分なりの樂しみを追求していきます。

お風呂上りはコレで決まり

お風呂1つにしても自分の樂しみを心置きなく投入出來るのです。

とても樂しいひと時となるでしょう。

とどめの一發

これがまた良いのです。

それは恰も一人旅で温泉に入る様なものでございます。

自分の時間を全力で精一杯生きる。それがお一人様の極意かと存じます。

記念すべき一人暮らし10年目の今日、この後も愉しむ事と致しましょう。

學生最後の日の事

3月もとうとう末日です。

明日は必然的に4月1日でありますが、新たな年度を迎える場合が殆どです。

私の勤め先は6月が決算なので4月1日と云う日に特別な氣持ちは湧かないのでありますが、この3月31日の今日と云う日は特別な思いがあります。

十数年前のあの日

この日は特に卆業の時期になりますれば特別な思い出が澤山あります。

特に大學卆業を迎えた十数年前の事であります。

次の日が入社式でありまして、遂に學生と云う立場ではなくなる瞬間でした。

その最後の日、今でも忘れ難くよく覺えているものです。

 

 

この日はいつもの様に起床し、いつもの様に朝食を濟ませてからいつもの様に午前中をのんびり過ごしておりました。

最早卆業式も濟み「大學生」の肩書の意味はその名称を残すのみとなっておりました。

天気は曇り。これと言って何も特別な事はありませんでした。

 

ところが午后になり、徐に寫經などを始めました。

前々から最後の一日は何か特別な事をやるつもりでおりましたが、それが寫經だったのです。

般若心経の278文字を1時間程かけて寫しておりましたが、この時の寫經は今も實家の經机に保管されております。

 

思えば幼稚園からこの日迄、それは經文の一字一句の如く、様々な出來事があり、そしてそれは無常のもの、即ち「空」であったのだと思うところ、曲がりなりにも學生として「悟り」の境地に達したのではなかろうかと今になって思うところであります。

 

それ以外はこれと言って何も無い至って平凡な一日でしたが、次の日の準備をする辺り「嗚呼、終わるのだな…」と感慨に耽ったものでした。

就寝前にカーテンを閉める前に見た夜空。學生時代はまだまだ遊んでいる時間に灯を落とし、時の流れの不思議さを思い乍ら床に就くのでありました。

昔を思い出してみる

時にこうして昔の事を思い出してみると良いものかもしれません。

特に樂しかった思い出等、良い意味で心に残っている事に時々思いを馳せてみると氣持ちの「リフレッシュ」になるのではなかろうかと存じます。

 

人生には色々な出來事があり時として惡い事も起こるものでしょう。それで當り前なのです。

しかし少しでも良き事が有れば、いつでもそれを呼び出せる様に、忘れない様によく思い出す事が出來れば力が湧いてくるものだと思います。

決して昔を懐かしみ、今に悲観するのではなく「こう云う良い事が自分には在ったのだ!」と恰も誇る様に思ってみるのが正解だと思います。

 

勿論、思い出でありますから、誰がどうやっても、それがもう一度繰り返して起こるものではありません。過去は戻らないのだからこそ思い出は美しいのだと思います。

それも「ヴィンテージ」の如く、時の流れがその美しさを一層醸し出すのが面白いところです。

 

その思い出を大切に出來るものが或いは幸せな生き方なのかもしれません。

幸せの形も色々に

思い出の多寡ではなく、その自分なりの意義が大事なのだと思います。

勿論、多いに越した事はありませんが、それもこの様に様々です。

ただ自分にとって大切なものがあれば、それで良いのだと思います。

何事もこう思える事が大切

今、そして次の瞬間も思い出になり得る事

数十年前の今日、それはまさに今と云う瞬間でした。つまりはその時点に於いて現在なのです。

それがこの様に美しきものに変わるのですから不思議なものです。

 

然らば今この瞬間、その「仕込み」をしてみるのも面白いかもしれません。

「今この瞬間」がどう化けるか、それは時が經ってからのお樂しみと云う訳であります。

この瞬間を大切に…

こうしたものを多く持てる様に心掛けて日々を過ごしたいものです。

さて、明日は4月1日です。

何か嘘でも考え乍ら迎える事に致しましょう。

後半へ~續く!

 

かけがえのないものがいっぱい

ご冥福をお祈り致します。

改めて申す迄も無い事ですが、日本はおろか世界中を驚かせそして悲しませた出來事がつい最近起こりました。

無論、私もその内の一人です。

俄かに信じ難い事ですが、これも運命だと思っております。

人生は別れの聯續

尤も、いつかはこう云う日が來る事を誰もが知っていた筈です。

ただ、あまりにも突然であった為に戸惑いを隠せません。

悲しい事に変わりはありませんが、受け止めなければなりません。

これは誰にもどうする事も出來なかった事なのですから。

 

こうした「どうする事も出來ない事」は人生に於いて多々ございます。

否、寧ろそっちの方が多いのだと思います。

人の一生の間の出來事はどうにか出來る事の方が少ないと思っております。

 

別れもその一つ。

幾らそれを望まなくても必ず訪れるべきものです。どうにもなりません。

そしてそれは何回でも繰り返し自身の周りで訪れる事でしょう。

大切なものとの別れは當たり前の事なのです。當然の如く訪れます。

その度に辛く悲しい思いをするでしょう。だからこそ次の事を考えなくてはならないのだと思います。

在りし日の樂しかった事

大切なものを失った時の悲しみは筆舌に尽くし難いものです。

しかしその悲しみの裏にはそれが確かに存在した過去があり、その時々で樂しかった事が澤山ある事と存じます。

一時は悲しみに暮れても、その樂しかった時の事を大切にしたいと思っております。

 

大切なものが在り、こう云う良い事があったのだと忘れない様によく心の内に思っておくのです。

そして、それはもう二度とやって來ないかもしれませんが、過去の出來事は何らかの形で残りはするものだと思っております。

そうして如何に多くのものを残すかが失った悲しみを乗り越えていく時に自分の力になっていくのだと考えております。

さよならは突然に

お別れは何の前触れも無く突然起こるものだと思っております。

たとえそれがどれ程豫見出來ていたとしても最後には悔恨が残るでしょう。

そう云うものだと割り切っております。

 

諸行無常と云う言葉が實に相應しかろうと存じます。

ずっと昔から我々はこれを悟っていたのです。

色即是空 空即是色。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 

我々はただそこに、ほんの一時たまたま居合わせただけなのかもしれません。

 

いつかはお別れする時が來るという事をいつも思い出せる様にすると人生とは、かけがえのないものでいっぱいなのかもしれません。

大切なものは

人それぞれに大切なものはある事と思います。

それは人であったり物であったり、或いは「思想」「趣味」「概念」「記憶」等、形の無いものも有るでしょう。

それらを失う時に大いに悲しむ事が出來る者が或いは幸多き者なのかもしれません。

 

失いたくないものがあれば當然それを大切にするでしょうし、そこから享受する「良き事」は増えるでしょう。

その「良き事」の多寡が一つの幸せの顕れではなかろうかと存じます。

大切なものが多ければ多い程、またその存在が大きければそれだけ多くの悲しみを經驗する事になるかもしれませんが、これも幸福の副産物かもしれません。

確かにそれが存在していた時は自分にとって幸せな事があった筈だからです。

 

もしも自分の周りの何かを失って少しも悲しむ事が出來ないとすればそれは幸せが無かったと云う事になるのかもしれません。

殊にイマドキは何か氣に入らない事があると簡單にすぐ「死ね」「殺す」と言う人が澤山居ります。小さな子供ですらそうなのです。

それは單に表現力や語彙が貧弱でそう云う單語しか出てこないのかもしれませんが、凡そそれが何を意味するかを今一度よく考えて、余力があれば國語のお勉強をする事を強くお勧め致します。

 

そして自分の周りにかけがえのないものがある事、更に自分自身が誰かのそれに該當する事が人として必要なのではなかろうかと存じます。

そう云うものを多く持ちたいものです。

最後にありがとうと

多くの人の中に

昔、子供だった頃に公園で大切なボールを失くしてしまい日が暮れる迄泣きながら探した思い出があります。

結局見つかりませんでしたが、それは数百圓を出せば新しい品物が手に入るのです。

しかし大事なものと云うのはそう云う問題ではないのです。

私もこれまで家族や知人を何人も亡くしておりますし、大事にしていた物は数えきれない位に失っています。

飼っていた虫や小鳥、犬なんかもそうです。

 

どんなものでも自分にとって大切なものを持つ、それも出來る限り持つと云うのが人生に於ける一つの目標の様に捉えております。

そしてそれらを持てる事、それらが在る事に感謝したいと思います。

 

時に13年前の今日と云う日は私の周りでも色々な事がありました。

自分にとって大切なものはあるか。それはどんなものか。よく考えて、よく思い出し乍ら日々を幸せに生きられたらと思います。

また、もしそれが見つからないとしても、ゆっくりと探して何か、どんなものであっても自分なりに手にする事が出來ればと思っております。

hitoria-juvey-ucchiyi.hatenablog.com

私は日々を一人で暮らしておりますが、それでもかけがえのないものがいっぱいなのです。そして私自身をそう思ってくれる人が居ます。

悲しみもそれだけ多くなるかと存じますが、それでも「これでいいのだ!」と思っております。

 

閏日

4年に一度の組合せ

ご無沙汰致しております。

正月に不幸があり、それから暫くブログを中断しておりました。

今日と云う日は4年に一度の閏年であるからして2月29日を迎えているのであります。

あと数時間の間ですが、この何でもない1日の特別な時間を過ごして參ります。

 

正月にあった不幸の事はいづれ何かの機會に触れられゝばと思いますが、まずは今日と云う日を愉しんでいきたいと思います。

そして今年最初の記事を書く記念すべき日と致したい所存でございます。

どうぞ本年も宜しくお願い致します。

至って普通の一日も

末日と云う事もあり、少々仕事が忙しかったのですが私の身の周りではこれと言って特に何事も起きない平凡な一日でありました。

 

そんな1日ですが玄關に飾ってある「オリヂナルキャラクター」の日めくりも4年に一度の組合せとなりました。

通常では見られない繪柄な訳でありまして、このカレンダーを作って初めての組合せになりました。

 

些細な事ですがこの「特別な日」と云うのを身近なところで演出すると忙殺される日々も面白味が出てくるものかと存じます。

特別な日にお披露目

とっておきの梅酒

そんな今日と云う日は特別な品物で夕餉を愉しまんと、去年水戸で賈って來たこの超豪華梅酒を戴く事に致しました。

 

まずはこの入れ物が凄いのです。

梅の花の文様が見事な陶器で出來た壺です。

 

そしてその酒のお相手は…

水戸藩ラーメン

これもまた去年水戸で賈って來た「水戸藩ラーメン」

かの水戸黄門こと徳川光圀公が作られたと傳えられている江戸時代のラーメンを再現した物との事です。

 

このラーメンおよび「水戸訪問」の記録についてはまた別の機會で触れられゝばと思いますが、今日は普段なかなかお目にかゝれないこちらのラーメンを戴く事に致します。

特別な日の特別な夕餉

壺の中に柄杓を入れて中の酒をすくうのがなかなかお洒落な注ぎ方です。

ラーメンには史實に基づいて5つの藥味と叉焼、そしてシイタケとナッパを添えます。

更に水戸光圀公も食されていたと云うチーズも食卓に並べておきます。

 

今日食べられているラーメンとはまた違う味わい。

梅酒も自作の物より甘味が強くスッキリとした呑み心地。

斯くは今日と云う日を愉しんでおりました。

自分なりに特別な日を拵える

hitoria-juvey-ucchiyi.hatenablog.com

この様に何かしら理由を附けて一年間に訪れる様々な日を愉しむ事にしておりますと、生活にもメリハリが出てきます。

hitoria-juvey-ucchiyi.hatenablog.com

節目節目を意識していると過ぎ去る時もまた味わい深いものです。

hitoria-juvey-ucchiyi.hatenablog.com

11月26日も「良い風呂の日」

「お風呂に入る」と云う、いつもやっている行動も些細な事でその樂しさは廣がっていきます。

 

今日もそんな感じで4年に一度の2月29日と云う日を過ごしておりました。

この「今日と云う日を過ごした」と實感して味わい乍ら過ごしていると何の変哲も無い平日のひと時も特別な時間が流れている様な、そんな感じが致します。

梅の花も愉しんで

少し前は近所の神社に咲いていた梅の花を通りがかりに愉しんで參りました。

日々を樂しく生きるには「些細な事を愉しむ」と云う事がとっても大切な事だと思います。

花の香りも春の訪れ

殊に水戸は梅で有名な偕楽園がございます。

當地の梅の花を思い乍ら呑む梅酒は格別であります。

また、當地のラーメンも美味しく頂戴致しました。

それも4年に一度の今日と云う日に。

乾杯。今日と云う日に。

 

嗚呼、暮れる…。

今日で仕事納めでありまして今年も愈々暮れていくのであります。

しんしんと…

年末の静かな夜に夜廻りの拍子木の音が先程から響き渡っています。

外は突き刺す様な寒さでありますが、不思議とこの空氣は心地良いものであります。

 

暫しバルコニーに出て夜風に當たっていると、子供の頃は町内會の夜廻りに參加して神社で焚き火に當たり乍ら友達とお汁粉等を食べて樂しんだ事を思い出します。

この拍子木の音は聴いているだけで時の織り成す不思議な感じを覺えます。

嗚呼、懐かしきかなあの頃…。今年も暮れていくのだな……と。

 

そんなひと時を過ごしている今日この頃ですが、今年も遂に暮れていくのであります。

暮れを五感で愉しむ

先日來大掃除を濟ませており、あとは明日におせちの材料を賈うだけとなりましたが、この瞬間は特に何かせずとも「暮れていくのだなぁ」と思って過ごしている事を愉しむべきかと存じます。

 

つい最近迄、師走の慌ただしさに忙殺されておりましたが、考え様によってはこれも1年の行事の様なもの。

そう考えると年越しなど全然實感が湧かなかったところでありますが、この雰囲氣がにわかに今年が終わり新しい年がやってくるのだと云う感覺をもたらしてきます。

それは或る種の風流の如く愉しむものだと思うのです。

赤提灯におでん

そんなひと時をこうしておでんと赤提灯で以って愉しんでおりました。

仕事納めの樂しいひと時です。

この赤提灯の下で呑む熱燗は格別です。

正しい熱燗の作り方

この一手間が酒を旨く致します。

おでんは近所のおでん屋さんで賈ってくるものです。

コンビニの安おでんなどには見向きも致しません。

やはり餅は餅屋。おでんはおでん屋さんなのです。

この雰囲氣がたまらない…。

合羽橋で(ついうっかり)賈ってしまったこの赤提灯は家で呑む際に非常に重寶致します。

昔、驛前に在った焼き鳥屋の屋台で狭い椅子に腰掛けて一杯やった想い出が蘇ってきます。

これからの時代、家で呑むにも雰囲氣が大事なのであります。

 

こうして今日この頃を樂しんでいると、何だかんだで1年が過ぎ、その時間も夢幻の如くあっと言う間の「アッと驚く為五郎」であります。

しかし思い返せば今年も色々な事があったのだと様々な出來事が脳裏を過ります。

それが不思議と懐かしくもあり、充實したひと時でもあります。

やはり今年も樂しかった。

そう思って今年最後にして丁度130回目の記事とさせて戴きます。

餅は餅屋。蜜柑は八百屋。

パック餅ではなく、ちゃんとした手作りの餅を賈っております。蜜柑も勿論本物です。

今年も良いのが手に入りました。餅の見張り番の蟹さんも威勢の良いポーズを取っています。

正月飾り、準備完了

こうしていると、やはり年末年始なのだな…と感じます。

この感覺が大事なのです。

五感で以って年の瀬を感じるとなんだか氣持ちが温かく、そしてどことなく氣分も高揚して參ります。

それは或いは風流を愉しむが如く、そして藝術を愛でるが如くであります。

昨夜は珍しい月も美しく(画像右下の建物の塔屋辺り…)

ベートーヴェンの第九などを聴くところでありますが、何故か「月光」おば…。

嗚呼、隠し部屋の扉が開いてしまう……。

來年のカレンダー、準備完了

巻癖を直す時に端っこが少しヨレてしまったのを氣にしてはいけない。

見て、聴いて、味わって、感じる。

今年も残り少なくなっていく今と云う瞬間を、どうせなら愉しみたいものです。

…ついでに便所の色紙も

折角大掃除で綺麗にした便所なので、色紙もフリーザ様を描いたものから「べん子ちゃん」に変えておきます。

日々の暮らしの小さな変化は意外にも心にメリハリをもたらしてくれます。

1年間の感謝を込めて…

斯くは幸せな時間を過ごさせて戴きましたが、當ブログをご覧になってくださる方がいらっしゃる事、星をくださり或いはコメントを賜る事も、私はとても嬉しくそしてありがたく思っている次第であります。

 

どうぞ皆様、良いお年をお迎えくだされゝばと思います。

本年も1年間お世話になり、誠にありがとうございました。

來年も何卆よろしくお願い申し上げます。

130回目にして今年最後の記事にて失礼致します…。

それはRPGの世界だった。

今日、12月18日と云う日は個人的に忘れ難き1日として記憶しております。

それは今から20数年前、私が小學校の5年生の時です。

 

その年のこの日「年末のプレゼント」に或るゲームソフトを親に賈ってもらいました。

そのゲームソフトとは、かのスーパーファミコンは『RPGツクール2』と云う物です。

實家に眠っていた物

これは實家の押入れに眠っていた件のソフトとそれに對應した周辺機器ですが、このヨレヨレになった箱の草臥れ具合からも過ぎ去った年月を思わずにはいられません。

 

そしてこの「RPGツクール」なるものは今も尚續いている趣味のキッカケにもなったのであります。

當時は何もかもが冒險だった

今はインターネットが發達しており、解らない事や調べたい事を機械に入力するだけで簡單に答を求められる様になりました。

人間は考える必要も無く、機械のボダンを押したり画面を擦るだけです。

それで機械が答えを用意してくれるのです。

 

これを便利と呼ぶか否かは置いておいて、誰でも氣輕にものを知る事が出來る時代になりました。

勿論、私もその恩恵を日常生活に於いて多々受けております。

 

しかし、このゲームソフトを賈ってもらった當時は當然そんなものはありませんでした。

解らない事は自分で考えて調べるしかありませんでした。

しかしそこには自分の求める回答を得るにはどうしたら良いかを考える必要があり、また關聯する知識も備えていなければそれを得る事も難しかった時代です。

時にはそれでも判明しない事も多く、その場合は「出たとこ勝負」と云う事にもよくなりました。

 

殊に私の御幼少の時期のゲームソフトなんかは半ば博打の様なもので、限られた情報、特に友達の評判やパッケージの繪と僅かなゲーム画面の情報だけを頼りに新しいソフトを賈っていたものでした。

勿論、そこで所謂「クソゲー」を掴まされてしまった方は日本中至る処にいらっしゃいます。

知識を得る冒險

さてそこで今はどうかと考えてみますに、そうした事故は零とは言い難くも大巾に減った事と存じます。

人間は事前に機械が出す答えに従っていれば良いのです。

少々の判断を要する場面はあるにしろ、お膳立ては機械任せです。

無論それに否定的になる事はありませんが、世の中のよろづ物事には「限度がある」と云う事を忘れてはならないのだと思います。

 

時には「知る」と云う課題に對して實行不可能な指令の如く、自らの頭脳と軆力の限りを尽くしてこれを行う「プロフェッショナル達の秘密機關の物語」の様に冒險してみるのも面白いのではなかろうかと存じます。

ゲェームの世界の様に

先ずは知りたい事があり、それを解決する事が目的となります。

RPGの世界でも同じです。目的と課題があります。

では、それを遂行するにはどうすれば良いか。

 

村や町の人の話を聞く。

何らかのアイテム等で解決する。

主人公達を強化していく。

 

…等、お馴染みの方法が幾らでもあります。

しかし、ゲームが始まっていきなり物語の核心が語られて主人公がすぐに強くなったかと思えば最後のボスの簡單な倒し方を得て、いきなり最後のボスが出てきたら…。

それは須らくクソゲーではなかろうかと存じます。

 

ゲームの樂しさはその過程を愉しむものだからです。

オープニングからエンディング迄の間に起きる様々な事を愉しむのがゲームの味わいではないでしょうか。

 

知識を得る事も或いはその過程を樂しんでみると思わぬ「經驗價」や「レアアイテム」を得たり、或いは隠し要素を發見出來るかもしれないと言うところであります。

そうして主人公、即ち自分がより強化されるのであればこれは旨いものではなかろうかと存じます。

これを時間の無駄と思うか否かは人それぞれですが、少なくとも無駄の中にも樂しい事は色々あります。

人間らしいところ残ってるじゃん

いざ冒險の旅へ…!

勿論、日常生活ではゲームの様に無尽蔵に時間が有る訳ではありません。

何事も課題を解決するにも全てが「時限イベント」です。

限られた時間内で課題を解決し、尚且つ自分にとって一番収穫を得るには少々工夫しなければなりません。

 

まずは機械に尋ねてみるのも一つの手ですが、そこでこの一言…。

廣く考察を得る

一つの結果を得るにしても、それは色々に答えが有る事と存じます。

この「皆の者」が多ければ多い程、自分の力が試されます。

謂わばボス戰や重要イベントに當たった時の様なもので、安易な回答だけで突き進めば泣きを見る事にもなりかねません。

強力なボスキャラも難解な謎解きも「通行人の情報」や「装備品の拡充」等の周到な準備の下に解決を見るのです。

 

而して自身の求める回答と出會えたとして、次に待ち受けるのはこの一言…。

あぁん⁉…なんで?

情報は參考にするもの、意見は聞くだけのもの、決断は自分でするもの、答えはそこで出すものと昔聞いた事があります。

そして、その過程でこう思うのです。

なんでそうなるの!?

如何にこれを探求出來るかが謂わば主人公の技量、即ち「レベル」に相當するものでしょう。

今やあらゆる人々が好き勝手な事を平氣で言う時代なので、この技術が求められているのかもしれません。

そしてそこでは單なる回答だけでなく、それに附随する知識を得る機會が随所に見られる事でしょう。

知識有っての調べ事

その得た知識が謂わば主人公の持つ「スキル」乃至便利な「アイテム」ではないでしょうか。

そして、それを得る手段の多さが頼りになる「パーティキャラクター」に該当するかと存じます。

 

斯くして自身の入手し得るあらゆるものを使って最後に課題を制するのです。

エンディングの先に見るものは…?

レベルが上がった!〇〇が増えた!〇〇を覚えた!

單に回答を得るだけでは僅かな經驗價しか得られなくとも、そこへ一工夫を致してみると、こう云う文言に出會えるかもしれません。

レベルが上がってこそ愉しめる巾も拡がる事と存じます。

人生こうでなくっちゃ!!

今日と云う日は私が人生で初めて「RPGツクール」と云うものに触れた日であります。

その時に夢中になって遊び、ソフトの操作方法のみならずゲーム作りの基礎やその面白さのノウハウ、果ては表現の仕方や世界観に關する知識迄…。

「ツクール」は思い出と共に色々なものを私にくれました。

 

今や、それが日常生活の何かの約に立てているであろう事を願ってやみません。

20数年前の今日と云う日に感謝です。

すぎかきすらの はっぱふみふみ

人選が古い…

12月も半ばに差し掛かろうとしている今日この頃ですが、地元では遅蒔き乍ら晩秋の紅葉を樂しんで參りました。

今日は午后から仕事が入ったのでありましたが午前中は久々の休日を愉しんでおり、朝は朝風呂に入った後に自轉車に跨って近所を散策していたのでありました。

休日の一寸したひと時

ほんの自轉車で数分の近所を一廻りしてきただけでありましたが、今日は雲一つ無い快晴。暖かな日差しはまるで秋の日の心地好さでありました。

時節はすっかり冬となりにけりと云ったところでありますが、今年は異常な氣象にて未だ秋の名残は根強く残っているのでありました。

近所の櫻の木

葉は散りつゝある状態ですが、今年も見事に色附き、その色は蒼天に映える様であります。

道行く木々に紅葉の美しさ

日本の四季はこうして我々の目を樂しませてくれるのであります。

私はこうした四季の美しさを愉しむ事が出來る事をとても幸せに思っているのであります。

鳥渡寄り道も

これはいつも夜に行っているスポーツジムのイチョウの木でありますが、見上げればまた見事な美しさ。

普段、何でもない時に通りかかる近所の道も見方一つで非日常の幻想的な光景となるのであります。

まるで木のグラデーション

赤、橙、黄、緑と色とりどりの木々の色はまさに自然の藝術。

これと同じものを作れと言われても、それは不可能なのであります。

我々はこうした美しさを日々享受している身の上である事を改めて自覺すべきではなかろうかと存じます。

美しいものを美しいと思える心こそ美しき

自然は神様であると云うのが我が民族の昔からの考え方の一つです。

然るにこの美しさは神様が與えてくださったもの。

謂わば神の恵みであり、自然を通じて神様が我々に示された一種の御利益でもあると思うのであります。

それはとてもありがたいものです。そしてそれを美しく思え、心に安らぎをもたらされる事は本當に素晴らしい事であります。

私はこの近所の散歩で見た光景に、とても幸せを感じているのであります。

氣附く嬉しさ、氣附かぬ勿体無さ

こうしたものに氣附くか否かは人それぞれであるかと存じますが、氣附いたならばとても嬉しい事です。

私はこう云う自然の美しさを見るにつけ、子供の頃によく観た(…今でも夏によく観る)あの有名な映画を思い出すのであります。

 

それは『となりのトトロ』であります。

色々な解釈がある今日かと存じますが、トトロは日本の或る神様が子供でも解りやすい形で顕れたものだと個人的に思うのであります。

然るに私達は「トトロ」そのものを見る事は叶いませんが、それが姿を変えたものをいつでも見る事が出來るのではなかろうかと…。

木々の美しさもまた然り

日本には四季折々の美しさがあります。

本來はそれを感受して心の豊かさを増すべきものでありますが、兎角現代社會は荒廃しております故、なかなかそう云うのも難しくなっている様でございます。

 

しかしこの心の豊かさこそ、幸せな生き方をする上での大きな原資かと存じます。

もしも先の「トトロ」が形を変えてこうして顕れているのであれば、それは主題歌にもある通り「もしも會えたなら、素敵な幸せがあなたに來るわ」なのであります。

まずは見附けましょう

また「トトロ」に於いては次の様な言葉もあります。

「見附からないのは、いないと思っているから」…と。

 

確かに「トトロ」そのものは居ないかもしれません。

あれはあくまでも製作者がデザインしたものに過ぎないからです。

しかし、神様は形を変えるものだと思います。

もしも日常のすぐそばにそれらが在るとしたら、そしてそれを見附ける事が出來るとしたら、それは或いは幸せな事ではなかろうかと存じます。

 

私は神道を信仰しておりますが、何教であれ、神様とは多くが人間の幸福に寄與する存在として扱われています。

然るにこうした自然の美しさは我々を幸せにするものではないでしょうか。

まずはこうした美しさを見附けて「良かった」と思えるところが出發点かと存じます。

あとはその心地よい氣分から心が豊かになっていくものだと思います。

幸せの素

幸せのきっかけに

特別難しい事は無いのです。

ただ近所を散歩して「良いなぁ」と思えるものを見附けるだけで心の安らぎにつながれば、それは幸せだと思うのであります。

今回はたまたまそれが紅葉だったのであります。

何でもない場所の街路樹や公園の木々。そんなものが心の持ち様に依って幸せになり得るのであれば、こんな旨い話はありません。

元手も要らず手間も掛からず、日々幸福を感じる手段は幾らでもあるのだと思います。

大切なのはそれを活かす事であり、困難な状況で身も心も疲弊する事の多い現代社會に於いてはファミコンの『スウィートホーム』の如き「心の力」を使って乗り越えていく事もまた必要なのだと思います。

その心の力を増やす原資、つまりは「幸せの素」とは或いはこうした何でもない日常のすぐ近くにあるのかもしれません。

いつもそこにあった奇跡

紅葉の鮮やかさ

これは今の時期でしか見られないものです。

紅葉に限らず、春の櫻、夏の木々の青さ、秋の紅葉、そして冬の雪景色…。

日本の四季折々の美しさは枚挙に暇が無いのであります。

そして同じ美しさはもう一度と思っても1年を經なければ二度と愉しめないのであります。

それがまた素晴らしいのです。

つまりは、こうした美しさに出會えるのは奇跡と呼んでも過言ではないでしょう。

今からでも心に響く自然の美しさが自宅からそう離れていない場所に普通に在るのですから、それを見附けられたら、それは奇跡なのかもしれません。

おまけに…

純喫茶のモーニングセット

散歩の後は近所の古くから在る喫茶店で一服愉しみます。

今はその数を急速に減らしつゝある昭和の喫茶店で私は「今日この時間を過ごせた事」そして「この場に居る事」をとても嬉しく思うのでありました。

或いは日々の幸福とはこうしたものなのかもしれません。

落ち葉

帰りにふと道端で拾った落ち葉からも…

なんとなく人ノ形に…

ふと思い附いた「イチョウちゃん」と「モミヂ君」でありますが、こうしたほんの些細な所謂「インスピレヰション」もまた樂しい心地の心の豊かさなのかもしれません。

 

嗚呼、良きかな日本の風情。私はこの國に生まれ育って今、とても幸せに思っているのであります。

柿と昆布茶

勿論、季節の美味もありがたく味わい乍ら…。