はや彼岸も過ぎぬれば9月も愈々御終いになるにつけ秋は尚遠く、残暑の感は未だ強き事と思へる今日この頃でありますが、皆様如何お過ごしでしょうか。
さて、漸くの事でこのブログの記事も當記事を以って123番目と相成りましてございます。
この記念すべき数字の記事に斯くは表題の件を執筆する次第。
今回は私の大事なものにつきまして少々述べていくのであります。
特別な場所とは
是即ち讀んで字の如き意味にございますが「自分にとって何か特別の感情を思い起こす場所」と致している次第でございます。
それは多分に「思い出のある場所」「自分の落ち着ける空間」或いは「深層心理に在る景色」等色々にございますが、今日ではこれがあると思いもよらぬ助けとなる事がしばしばある様に思えます。
身近な例では何かで疲れた時や氣持ちをリフレッシュしたい時等に、その場所に行くと特に効果的であり不思議な力が湧いてくる事があるのです。
そうした場所を持つ事が幸福な日々を送る一つの方法なのかもしれないと思わずにはいられません。
「特別な場所」へ行こう
私にも一丁前にそうした場所はあります。
その多くは「昔からの思い出の多い場所」でありますが、しばしばそこを訪れる事があります。
その度に心身の疲れの癒える心地を覺えるのであります。
これはその内の一つ。
千葉縣某所でございますが、私の思い出の場所であり自分にとっての「特別な場所」なのです。
子供の頃によくここで遊びました。家族旅行で毎年の様に來ていた場所です。
その樂しかった思い出がこの場所に來るだけで鮮明に思い出すのです。
今も當時と変わらぬ場所が在り、まるで時間が止まったかの様な錯覺がして恰も懐かしい昔へ戻って來た様な氣さえ致します。
ただそれは單に懐かしいと云うだけではなく、色々に不思議な感情を抱くものであります。
それは時を重ねる毎に強くなるもので懐かしさと非常に似てはいるのですが、それとはまた違う心の安らぎを覺えるのであります。
視覺によるものだけではなく、その空間の全て、匂い、音、空氣、凡そそこに在るもの全てが自分にとって特別に思えるのです。
それはひとえに樂しかった昔を懐かしむ心に密接に關係しているのかもしれませんが「この場所にしか無い何か」を感じている事に他ならぬと思います。
それを感じ取る事が非常に重要な事なのかもしれません。
あの時から今日までずっと存在していたのに忘れていた場所
この場所は今夏久々に訪れてみたのでありますが、遠い昔にお別れをしてから随分長い間、忘れ去ってしまっていた場所でもあります。
それは即ち一時的ではありますが自分の中から抹消してしまった場所である事に変わりません。
しかし、その場所は現にこうして今迄存在し續けていたのです。
それもほとんど姿を変えていない場所もあります。
そこへ身を置く刹那、自分の中で失われていた場所が蘇ってくるのです。
この瞬間に不思議な感覺を覺えます。
少々大袈裟かもしれませんが、ふと二度と會えなくなった大切な人が突然戻って來たかの様な形容が相応しかろうと存じます。
そう、私にとって特別な場所とは斯くの如くかけがえのない存在であるのです。
二度と見る事の出來ないもの
しかし乍ら、中にはとうの昔に姿を消してしまった場所も幾つかあります。
そしてそこはもう、どんな事をしても實際に立ち入る事が絶對に出來ぬものなのです。
これは近所に嘗て存在した公園です。
ここも子供時代の思い出が澤山詰まった「特別な場所」でした。
残念乍ら今は存在していません。この場所には「超ハイカラな分譲マンション」が建っています。
在りし日の景色をキャメラに納めていたのでありますが、時間旅行が出來ぬ限り、もうこれはどんな事をしてもこの景色のここに降り立つ事は絶對に出來ません。
しかし現に存在しなくても心に残す事は出來ます。
それを以って時々思い出してみると、少々寂しくもありますが不思議な温かさに満ちているものだと思います。
たとえもう存在しなくてもこの「特別な場所」は間違い無く在るのです。
時間と空間
高級な酒の様に「特別な場所」とは時間が精製するものなのかもしれません。
初めて訪れたその時は然程ではなくても時を經ると違った風に感じる事は往々にしてあります。
これがこの「特別な場所」の妙味ではなかろうかと存じます。
例えばこの場所などは至って普遍的な公園です。何ら特殊な部分は見當たりません。
しかし自分だけの時間の流れがこの場所を私にとっての「特別な場所」にしたのです。
また、一目見て忘れ難き場所も當然あります。
この時に感じた或る種の「インスピレヰション」と云うものもまた時を經ると不思議な味わいを持つものでございます。
これはなかなか人に説明するのが困難なものです。
自分にしか持ち合わせていない感覺や感受性が大きく影響しているのだと思います。
明確な記憶でなくとも、自分にとってどこかに何らかの形で存在し續けた場所なのかもしれません。
自分だけの寶物に
これら「特別な場所」は観光案内等に掲載されている所もありますが、多くの場合そこから不思議な感受性を得られるのは自分と(…と、それに關係した一部の人物)だけです。
自分だけにしかない時の流れや出來事があるからして「特別な場所」たり得るのだと思います。
従って自分以外の者にとっては何ら特別でない場所である事もしばしばあります。
この何の変哲の無い道路ですら私にとっては「特別な場所」なのです。
詳しく申せば画像向かって右側の駐車場が昔、祖父と祖母が住んでいた家だったからです。
この様に人によってこの「特別な場所」とは十人十色でございまして、様々な所に様々な人の「特別な場所」が存在しているのだと思います。
そしてそこから感じ取るものも人それぞれです。
しかしそれは須らく「自分にとって素敵な場所」でありたいものです。
それは出來るだけ樂しく、そして素晴らしい思い出の在る場所、乃至不思議な作用で自分の氣持ちが休まる何かが存在する場所である事が非常に望ましいのです。
然して、そう云う場所を1つでも持っている事はとても幸せな事だと思うのであります。
そこに赴けば確かに今も在る場所であれば尚の事です。
そうしたものはたとえ日常どんな些細な場所であったとしても大切に思い續けていきたいものだと思います。
いつかそこが無くなってしまっても自分にとって何か特別な時間が過ぎていったのであれば、またその時の流れを愉しむ事も出來ましょう。
イマドキは人々の心はどんどん荒み、また貧しくなっていくものです。
そんな中を生きていかねばならない身の上でありますれば、この「特別な場所」が何かの役に立つ時があるのだと思います。
後半へ~續く!