私はどうも旅行等に行くと何故かどうでも良い様な道とか何でもない場所をよく寫眞に納める様なのです。
よく一緒に旅行に行った友達と現地で撮った画像をシェアするのですが、私の画像にはみんながよく撮る様な有名な観光地の他にこうした「何でもない場所」が幾つもあり友人からは「どうしてこんな場所撮るの?」と疑問に思われた事もしばしばあります。
勿論名所や観光地の寫眞も撮るのですが、そう云う寫眞は謂わば誰でも撮る様なもので「どこにでもある寫眞」に思えるのであります。
前回、自分にとって特別な場所の事を書きましたが、私はどうも至る所にそれがありそうなのです。
旅行は勿論、近所を散歩に行っても、何故かこう云う寫眞を澤山撮るのであります。
別にそこが何か有名でもなければ町のごくありふれた風景なのでありますが、ふと見ると立ち止まって何やら思うところがあるみたいなのです。
何をどう思っているのかは自分でもよく解りませんが寫眞を撮る以上は何かの感性に訴えるものがあるのではなかろうかと存じます。
氣が附けば「特別な場所」
こうした場所には何か自分にとっての特別なものがあるのかもしれません。
故にこの日常ふと通りかかった色々な場所が自分にとっての「特別な場所」になり得るのかもしれないのです。
勿論、こうした場所は初めて訪れる所ばかりです。
そして單に視界に入る風景ではなく「その場全軆」が何やら居心地が良かったり、或いはどこか懐かしかったりと不思議な感覺がするのであります。
斯くの如く、氣が附けば色々な場所が「特別な場所」に思えてくるのであります。
何でもない風景で癒される
よく非日常を感じたくて旅行に行かれる方は多いかと存じます。
勿論、私もそうです。旅の空はその非日常から心を躍動させるものです。
しかし、日常の風景の中にも實はそれが色々な場所に紛れ込んでいるのではなかろうかと存じます。
こうしたものに氣附けると何かと生きづらい世の中に在っても心が和み、色々に癒されるものだと思います。
これ即ち、幸せと呼べるものではなかろうかと存じます。
そう考えると色々な場所で何やら特別な感じを持てるのであれば、その分「何でもない場所」でもより多くの幸せを感じる事が出來るのかもしれません。
これが多幸感を持って生きると云う事なのかもしれません。
世の中には色々に厭な事で溢れかえっていますが、そんな中でも氣附きにくい場所で或いは気持ちを癒せるのかもしれません。
そこには何かと充實した日々を過ごすヒントが隠されている事でしょう。
今日もどこかで「特別な場所」を
まだ見ぬ地にもこうした場所は幾らでもあるでしょう。
無論、近所でも探してみれば色々と見附かる筈です。
何氣ない散歩でも日々の移動でも何でも良いのでふと目に入った景色から何か特別なものを感じられる様にするとそれだけで毎日が樂しくなるものだと思います。
それもまた「氣儘なお一人様」を満喫する一つの方法なのでしょう。