12月も半ばに差し掛かろうとしている今日この頃ですが、地元では遅蒔き乍ら晩秋の紅葉を樂しんで參りました。
今日は午后から仕事が入ったのでありましたが午前中は久々の休日を愉しんでおり、朝は朝風呂に入った後に自轉車に跨って近所を散策していたのでありました。
休日の一寸したひと時
ほんの自轉車で数分の近所を一廻りしてきただけでありましたが、今日は雲一つ無い快晴。暖かな日差しはまるで秋の日の心地好さでありました。
時節はすっかり冬となりにけりと云ったところでありますが、今年は異常な氣象にて未だ秋の名残は根強く残っているのでありました。
葉は散りつゝある状態ですが、今年も見事に色附き、その色は蒼天に映える様であります。
日本の四季はこうして我々の目を樂しませてくれるのであります。
私はこうした四季の美しさを愉しむ事が出來る事をとても幸せに思っているのであります。
これはいつも夜に行っているスポーツジムのイチョウの木でありますが、見上げればまた見事な美しさ。
普段、何でもない時に通りかかる近所の道も見方一つで非日常の幻想的な光景となるのであります。
赤、橙、黄、緑と色とりどりの木々の色はまさに自然の藝術。
これと同じものを作れと言われても、それは不可能なのであります。
我々はこうした美しさを日々享受している身の上である事を改めて自覺すべきではなかろうかと存じます。
自然は神様であると云うのが我が民族の昔からの考え方の一つです。
然るにこの美しさは神様が與えてくださったもの。
謂わば神の恵みであり、自然を通じて神様が我々に示された一種の御利益でもあると思うのであります。
それはとてもありがたいものです。そしてそれを美しく思え、心に安らぎをもたらされる事は本當に素晴らしい事であります。
私はこの近所の散歩で見た光景に、とても幸せを感じているのであります。
氣附く嬉しさ、氣附かぬ勿体無さ
こうしたものに氣附くか否かは人それぞれであるかと存じますが、氣附いたならばとても嬉しい事です。
私はこう云う自然の美しさを見るにつけ、子供の頃によく観た(…今でも夏によく観る)あの有名な映画を思い出すのであります。
それは『となりのトトロ』であります。
色々な解釈がある今日かと存じますが、トトロは日本の或る神様が子供でも解りやすい形で顕れたものだと個人的に思うのであります。
然るに私達は「トトロ」そのものを見る事は叶いませんが、それが姿を変えたものをいつでも見る事が出來るのではなかろうかと…。
日本には四季折々の美しさがあります。
本來はそれを感受して心の豊かさを増すべきものでありますが、兎角現代社會は荒廃しております故、なかなかそう云うのも難しくなっている様でございます。
しかしこの心の豊かさこそ、幸せな生き方をする上での大きな原資かと存じます。
もしも先の「トトロ」が形を変えてこうして顕れているのであれば、それは主題歌にもある通り「もしも會えたなら、素敵な幸せがあなたに來るわ」なのであります。
また「トトロ」に於いては次の様な言葉もあります。
「見附からないのは、いないと思っているから」…と。
確かに「トトロ」そのものは居ないかもしれません。
あれはあくまでも製作者がデザインしたものに過ぎないからです。
しかし、神様は形を変えるものだと思います。
もしも日常のすぐそばにそれらが在るとしたら、そしてそれを見附ける事が出來るとしたら、それは或いは幸せな事ではなかろうかと存じます。
私は神道を信仰しておりますが、何教であれ、神様とは多くが人間の幸福に寄與する存在として扱われています。
然るにこうした自然の美しさは我々を幸せにするものではないでしょうか。
まずはこうした美しさを見附けて「良かった」と思えるところが出發点かと存じます。
あとはその心地よい氣分から心が豊かになっていくものだと思います。
幸せの素
特別難しい事は無いのです。
ただ近所を散歩して「良いなぁ」と思えるものを見附けるだけで心の安らぎにつながれば、それは幸せだと思うのであります。
今回はたまたまそれが紅葉だったのであります。
何でもない場所の街路樹や公園の木々。そんなものが心の持ち様に依って幸せになり得るのであれば、こんな旨い話はありません。
元手も要らず手間も掛からず、日々幸福を感じる手段は幾らでもあるのだと思います。
大切なのはそれを活かす事であり、困難な状況で身も心も疲弊する事の多い現代社會に於いてはファミコンの『スウィートホーム』の如き「心の力」を使って乗り越えていく事もまた必要なのだと思います。
その心の力を増やす原資、つまりは「幸せの素」とは或いはこうした何でもない日常のすぐ近くにあるのかもしれません。
いつもそこにあった奇跡
これは今の時期でしか見られないものです。
紅葉に限らず、春の櫻、夏の木々の青さ、秋の紅葉、そして冬の雪景色…。
日本の四季折々の美しさは枚挙に暇が無いのであります。
そして同じ美しさはもう一度と思っても1年を經なければ二度と愉しめないのであります。
それがまた素晴らしいのです。
つまりは、こうした美しさに出會えるのは奇跡と呼んでも過言ではないでしょう。
今からでも心に響く自然の美しさが自宅からそう離れていない場所に普通に在るのですから、それを見附けられたら、それは奇跡なのかもしれません。
おまけに…
散歩の後は近所の古くから在る喫茶店で一服愉しみます。
今はその数を急速に減らしつゝある昭和の喫茶店で私は「今日この時間を過ごせた事」そして「この場に居る事」をとても嬉しく思うのでありました。
或いは日々の幸福とはこうしたものなのかもしれません。
帰りにふと道端で拾った落ち葉からも…
ふと思い附いた「イチョウちゃん」と「モミヂ君」でありますが、こうしたほんの些細な所謂「インスピレヰション」もまた樂しい心地の心の豊かさなのかもしれません。
嗚呼、良きかな日本の風情。私はこの國に生まれ育って今、とても幸せに思っているのであります。
勿論、季節の美味もありがたく味わい乍ら…。