一人を楽しむブログ

孤独ならぬ御一人様を愉しむ為の備忘録。

大事な物とのお別れ

私は毎月1つは記事を書こうと思っていたのですが先月は遂に初めて1つも記事を書かない月になりました。

實は先月は大事な人形を不注意から壊してしまい、とてもブログの記事を書く氣にならなかったのです。

物と雖も大事な物は家族同然

さよならは突然に

壊した人形と云うのは京都のお土産の「お福さん」だったのです。

素焼きの土製で上から物を落としてしまい壊してしまいました。

この「お福さん」を賈ったのが今から17年前で當時私は大學生。

友達と一緒に旅行に行った際に土産で賈ってきた物でずっと飾ってありました。

 

ずっと前から、今日も、明日も、明後日も、その次の日もずっと當り前の様に飾ってあったのに無くなる時はほんの一瞬です。

大事な物を失う時と云うのはそう云うものだと思います。

ずっと有った物が或る日、何でもない時に突然何かが無くなる事があるのです。

諸行無常

人の命に限りがある様にこの世に絶對と云うものは無いのだと云う考え方がありますが、私もそうだと思います。

いつかどこかでお別れしなくてはいけない時は須らく來るのでございます。

大事な事はそれを迎えた時に、その事實とどの様に向き合うかだと思います。

 

私はずっと昔にカブトムシを飼っていた時があり、それが冬を越せずに死んでしまった時は大層泣いた思い出があります。

また数年前迄、大型インコが實家におりました。

しかし、それらはもういないのです。

 

数年前に亡くなった母は「生き物には生きている時間がある」と云う事を子供の時の私に教えてくれた事がありました。

物にも形になっていられる時間があるのだと、そして一緒にいられる時間があるのだと言うのです。

私は物にこだわるタチらしく、よく幼い時は何かお氣に入りの物が駄目になってしまうと「壊れちゃった!」と泣いたものでした。

幼稚園の時に近所の公園でボールを無くしてしまい、大いに泣いた思い出がありますが、それは誰にもどうする事も出來ない「仕方の無い事」なのだと言うのです。

 

その時が尽きた。

私はその様に考えております。

 

有名な文句にあるのです。

世誰ぞ常ならむ。…と。

つまりは色即是空。世の中に存在するものは即ち「空(くう)」であり、皆恒常的な實軆は無いのだと云う事であります。

空に帰す時はそのものとの因果が失われた時だともいう様でございます。

 

こう見えても子供の頃から般若心経を空で言える身の上。

折角なのでこの歳になればその意味も少しずつ勉強してみても良いものかと存じます。

お別れの時を迎えたら…

例えば、大切な人が亡くなってしまったら心を込めて葬儀を行います。

そして節目節目でお參りや法事等でその人を偲ぶものです。

 

それは物であっても同じだと思っております。

勿論、人と同じ様な葬式をする事は叶いませんので、そこは物に對して自分なりに氣の濟む様にやれば良いのだと思います。

 

今回の「お福さん」は割れてしまいバラバラの破片になってしまいましたが、出來る限り接着剤で元の形に戻した上で半紙に包み、箱に入れて人形供養のお祭りに奉納しました。

 

折しも明治神宮人形供養祭が行われておりました。今月2日の日曜日の事です。

この日は立秋を過ぎてい乍らの夏日であり、今年最後に蝉の声を聞いた日でございました。

美しく荘厳な大鳥居

お納め料を奉納し、人形の入った箱を兩手で掴み最後の別れとお礼を言って神職の方にお渡ししました。

受け取った人形の「ひとがた」にしっかりと自分の名前を書きました。

これで私なりにこのお福さんとのお別れを濟ませたのであります。

 

大事な物だったのですから、こう云う事は大事にしたいのです。

また、そうする事で心が温かくなり、色々な物事に對する思いやりや優しさを理解出來る様になるのだと思います。

イマドキの物に溢れている日本人に足りない事はこう云う事ではなかろうかと、つい思うものでございます。

人生は別れの聯續

生きている限り色々な物との別れは日常的に起こり得ます。

好きだったお店が無くなっていたりする事も同じです。

私も大好きだった銭湯や喫茶店、洋食屋、鐡道車輛……色々な物が次々と無くなっていきました。

悲しい事にそれに代わって新しく出來る物に魅力を感じないせいか、失ってしまったものばかりが心に残るのです。

 

しかし世の中、自分の前から何かが無くなる事なんて或いは日常茶飯事かもしれません。

日々、どんどんこう云う事は起きるでしょう。それが當り前なのだと思います。

 

何かを失う事は人生當り前の事なのですから、それを迎えた時にどう振舞うかが大事なのかもしれません。

人生はお別れの聯續なのです。

 

私は少なくともお別れは自分なりに行い、そして時々それを思い出す事にしております。

無くした過去に泣くのではなく、その物がもたらしたものを思い出す様にしております。

或いはもしかしたら、この壊れてしまった物は何かの身代わりになったのでは…とも思うのです。

 

 

お一人様を過ごしていても物との關わりは多々あります。

それらとの触れ合いを今少し考えてみると人々の心が荒み貧しくなりつゝある世の中に於いても心を豊かにする事が出來るかもしれないと考えております。

そうした事が幸せな日々を送る上でも大事な事かもしれません。

少なくともそれが出來る様に、私は日々を過ごしていきたいと思います。