先日の休みの日に、いそいそと自轉車に跨り、一寸したお出掛けを致しました。
丁度木々も色附いており、今年の紅葉を愉しむに至りました。
曇天に映える紅葉かな
この日は低い雲が空を覆っており、どんよりとした天氣でございました。
本來ならば快晴の秋空に映える紅葉をと思っておりましたが、折角お出掛けをしたのであまりつまらない氣持ちにはなりたくないものです。
然して、ここで氣持ちの切替と致しましょう。
今眼前にあるものを愉しむ事に意識を集中致しますと「これはこれで良いんじゃないかな」と云う閃きを得る事が出來ます。
ここで大事なのはそうした心の持ち様ではなかろうかと存じます。
「いいぞ」と思える精神的な余裕を
なるほど雲一つ無い秋晴れの下の紅葉は、それは見事なものです。
しかし、雲の多い日に観る紅葉もまたそこには無い面白さが有るのではなかろうか。
そう思うと、この忌々しい曇天の一瞬がとても貴重に思えるのでありました。
同じ様な空模様をもう一度愉しみたいと思っても、次にそう云う日が訪れるのはいつになるか解らないのでありますし、紅葉が見頃な時期にもう一度あるか否かも解らないのであります。
然るにこの日の紅葉は當初想定していなかったものの「これはこれで良い」と云う結論に至ったのであります。
そうすると、目の前のものがより樂しく見えるものであります。
一般に「天高く馬肥える秋」とか申しますが、こうして低い空を眺めてみるとイチョウの巨木もその大きさを尚の事實感出來す様でございます。
通行人様と比べてみてもその巨木の感じが傳わって參ります。
このイチョウ並木を通ると恰も自らの小ささを感じるものでございます。
見上げれば高い木の天井のトンネルであります。
白い空に白い建物を背景にイチョウの巨木を捉えます。
黄色く色附くイチョウの葉も景色に巧く溶け込んでいる様です。
參道を抜けて鬼子母神様へお參りを致します。
神社仏閣のお社や本堂は直に撮影せずに境内の外から撮るのがそこへ住まう神様仏様への禮儀だと思っております。
遠めに撮ると周りの木々も映えるものです。
紅葉もやゝ鮮やかさに欠ける雰囲氣ではありますが「これはこれで良い」のです。
今年は秋も無きに等しく突然の冬が訪れた様でございまして、某安ステーキ店も眞っ青のいきなりさでございますれば、紅葉も今一つと言った感じではありますが、それもまた一つの年の形。
「今年の紅葉」として愉しみましょう。
ここでも人が寫り込んでしまいましたが、參拝客が寫ってこその參詣地だと思って「これはこれで良い」のであります。
この方が木々の大きさもより引き立つと云うものです。
完璧とはいかずとも、なかなかのものだと肯定的になる事は出來ます。
この「なかなかのものだ」と云う肯定の仕方は便利なものです。
こだわりは、つぶしが利くのが理想
物事にこだわるのは決して惡い事ではないと思っております。寧ろそれが必要な場合は多いのです。
現に私も色々な事にこだわりを持って生きているつもりであります。
しかし、よろづ物事には限度と云うものがある様に、それも時と場合に依るものだと云う事を理解するのが重要になって參ります。
例えば日常のあらゆる事に完璧を求めていると、いざその通りにならなかった時に、どうにもならなくなってしまうのであります。
わりとよく些細な事に固執して問題を起こす人物が現れますが、それが典型例であります。
世の中、そう巧く自分の思い通りにならないのは某クラッカー菓子の如く、當たり前なのであります。
然るにそう云う時の為に、自分のこだわりは當初想定外の事態に陥ってもつぶしが利く様に心掛けるのがこの「これはこれでいいのだ!」と云う精神に結び附くのではなかろうかと存じます。
鬼子母神様散策
さて、話を鬼子母神様に戻します。
本來、鬼子母神様の鬼の字は一画目が無い「角の無い鬼の字」でありますが、コンピューターの文字列の中にその字が無かったので常用文字の「鬼」を使わせて戴きます。
惡しからずご了承くだされゝばと存じます…。
本堂をお參りした後は境内を見て廻ります。
古來、この地はお稲荷様の森として存在しており、そこに鬼子母神様がやって來た形になりますが、この稲荷堂にも當然お參りして行きます。
鳥居の脇には大木の幹と思われる物が轉がっておりました。
これだけの木に育つのは途方も無い時間がかかるものです。
ご神木となっている大公孫樹。樹齢700年程、幹廻り約11米、高さ33米の巨木です。
結界となっている御幣から少し離れた位置より憚りを以って撮影致します。
勿論、柏手を打ち、深く禮をするのを忘れずに…。
木は紅葉したての様でまだ青さが残っておりましたが、この黄色と緑のグラデーションを愉しめるのはこの時ばかり。
木の上の方から徐々に色附いているその様は恰も天から黄色い葉の紅葉がこのご神木に降りかかるが如き色合いでございます。そう云うものを観られるにつけ「これはこれで良い」のです。
この後、茶店で名物の「おせん団子」を頂戴した後、駄菓子屋さんで二つ三つお菓子を賈って境内を後に致しました。
さてその帰路、東池袋附近の町並みでありますが、この様に高層マンションの立ち並ぶ一角に昔乍らのお寺が混在しております。
こうした最先端の現代社會と傳統的な歴史ある一角が同じ空間で調和している所が今や日本の美しさの一つと言えるのではなかろうかと存じます。
本當は帰り道を間違えて遠廻りになってしまったのですが、こう云う美しい對比の風景に出會えた辺り、やはり「これはこれで良い」のであります。
更に帰り道途中で喫茶店に入り、珈琲などを注文。
端っこの小さなテーブルの席しか空いていなかったのでありますが…
廣いテーブル席は埋まってしまっていたのでありますが、窓際で外を眺め乍らの珈琲はまた格別。
端っこと云う事だけあって少々窮屈ではありますが静かに自分の珈琲タイムを愉しめます。
好物のチョコレートケーキが品切れでありましたが代わりにモンブランを注文。
秋なので栗にちなんだ甘味もまた旨し。
そうです。少々希望通りにはなりませんでしたが「これはこれで良い」のです。
家路について一息入れゝば、先程迄の曇天が晴れて秋の空に美しい雲が流れていきます。
こうした情景を一枚寫眞に納めて西日の差しかかる空を眺めて、今日「これはこれで良い」と思うのでありました。
嗚呼この日一日が自分の100%でなくとも、それを否定せぬところに樂しいお一人様の素晴らしい一日が在るのであります。
一日の終わりにこう思える事こそが充實した日々を過ごす秘訣かと存じます。
何もかもが自分の思い通りとなる事など、ほゞ有り得ぬ事です。
そうした時に別のものが舞い込んで來ようとも「これはこれで良い」と思える事が豊かな時間の要点かと存じます。
余談
さて氣附けば11月も終わりに差し掛かり、今日は11月29日。
これを称して「良い肉の日」であります。
例年この様にステーキなどを焼いておりましたが、今年は鳥渡献立を変えて鶏肉のタジン鍋などを作ってみました。
豪勢なステーキも良いのですが、これもまた旨し。
即ち「これはこれで良い」のであります。