9月になり、俄かに空も高くなったかに思える今日この頃でございますが、8月も31日と云う日を過ぎると、途端に夏が終わってしまったかの様に思うのは子供の頃から一緒です。
夜は秋の虫の声が響き、落ち葉も少しずつ増えて空にはイワシ雲が流れる様になりました。
當たり前の事ではありますが、季節の移り変わりは心の琴線に触れるものがあります。
そこで過行く夏を振り返り、今夏に見た夏空を振り返ってみたいと思います。
夏空アルバム
夏は私が四季の中で一番好きな季節です。
その風景の一枚一枚に良き思い出があります。
昔から夏に見る景色は私にとって特別なものに映るのです。
それがどれほどありふれた景色でも、そこに風情を感じて「もののあはれ」を思う事が或いは日本人として心豊かな日々を過ごす一つの力だと思うのであります。
また、そうする事が私は何よりも好きな性分なのです。
まずは時を遡り、6月下旬は梅雨時の一枚。
わざと遠廻りをしてこう云う道を通るのもまた一興です。
墨繪の様な低い雲を背景に昔乍らの紫陽花の花と無機質的な通勤電車の取り合わせが何とも面白く感じるものです。
雨が上がればこうして涼しげに吹き抜ける風を感じ乍らバルコニーで一杯やるのがこの時期の樂しみでした。
7月上旬。まだ酷暑の訪れも遠く、夏の訪れを感じる初夏の風は若葉生い茂る木々の匂いを運んできて酒肴も一段と旨く味わえるものです。
合羽橋で衝動賈いしてきた赤提灯は今年も大いに役に立ちます。
電氣ブランとチェイサーに麥酒は浅草は神谷バーでお馴染みの呑み方です。
冷奴に罐詰。すぐそこに在る風流を愉しむにはこの位シンプルな肴で結構なのです。
まだそれ程暑くない朝であればこうしてバルコニーで朝食を摂る事もしばしばであります。
7月下旬の早朝は遠くの公園でラヂオ軆操の音が聞こえてくる時間帯。日本の夏の朝。子供の頃の思い出が蘇ります。
この日は珍しく洋食です。お中元で戴いたハムをせっせと消費しております。
この夏にキャメラの三脚を改造して造ったテーブルがこうして役に立ちます。
夏にはこうした夕焼けが見られる日が幾日かあります。
空は一時一時でその表情を変え、澤山の色を魅せてくれます。
その一瞬にそこにしかない美しさがあり、片時たりとも目が離せません。
周りの木や建物が夕闇に黒々と浮かび上がり、愈々空には夜のとばりが訪れます。
嗚呼、暮れる。
そんな一日の瞬間。時の流れを感じる事の少なくなった現代社會の荒涼とした風景に夕日は今自分の生きている時間を氣附かせてくれます。
遠くの方を流れる入道雲。
空の青さと雲の白さの對比が雲の多くなるこの時期に美しさを魅せます。
入道雲が見えれば次は雨です。
今は氣候も酷く狂い「ゲリラ豪雨」と云う何とも荒廃した氣象になりましたが、時には昔乍らの「夕立」が降ります。
私は子供の頃から雨音は好きですが雷が大の苦手でありました。
この日の雨は懐かしいどこか優しい感じのする音でした。
時に7月下旬。雷の音と共に梅雨は明けていきました。
先程迄空を覆いつくしていた低い雲は美しい夕日に照らされ同じ雷雨を降らせた雲とは思えない程に綺麗なのでありました。
雨が上がれば蝉が鳴き、夏を一氣に運んで參ります。
こう云うひと時に、わざわざバルコニーに出て大きく息を吸い込むと懐かしいあの頃の匂いがします。
勿論、その足元には蚊遣り器のブタ君が一生懸命蚊取り線香を焚いております。
一寸電車でお出掛けする際も夏の空はいつも一緒についてきてくれます。
旅路の空はいつも美しい。旅情に空はつきものです。
車窓を愉しむのは移動時の大きな樂しみでもあります。
これを無駄にする事など到底考えられないのです。目的地に思いを馳せ、驛辨を戴くひと時は格別の贅澤であります。
この日は輪行だったのでお酒は無しです。残念乍ら荷物になるので愛用のポリ茶瓶も今回はお休み…。
遠くの山、青田の廣がる一本道を自轉車で移動している時の一コマ。
一寸立ち止まって遠くを見てみれば、そこには心が拡がる夏の景色があるのでした。
少し足を止める事は大切な事です。
立ち止まってのんびり周りを眺めてみれば、日常の何でもない場所に非日常の風流が幾らでも轉がっております。
それに氣附いた時の多幸感をよく味わうのが正解だと思っております。
木陰が長くなり、遠くの方からヒグラシの鳴く声が聞こえてきます。
嗚呼、今年もヒグラシの声を聴いて心安らかなひと時を過ごす事が出來た。それだけでも幸せです。
何もイベントやコンサートの様な特別な事は必要ありません。
ついそこにあるものを愉しむのがこうした美しさに出會う一番の近道だと思っております。
これは眞っ暗で何が寫っているのか全く以って判然としませんが、實は螢が寫っております。
そしてこの漆黒の闇の彼方には美しい夏の星空が拡がっているのです。
そして周りは澤の流れる音とカエルの大合唱であります。
残念乍ら私の腕では巧く寫す事は出來ないのでありますが、こうしたものを観られたと云う事實を以って幸せと為すのであります。
これは8月上旬の或る日の早朝4時半頃、瀧の様な蝉の声にふと目が醒めた時に窓に掛けてあるすだれ越しに部屋一面が茜色となっており、急ぎ飛び起きバルコニーに出た時の一枚です。
起床一發、その日最初の第一声が「うぉっ!?なんじゃこりゃ…!!」だったのです。
その日は見事な朝焼けが空を覆っており、いつも見ているあらゆる物が不思議な色合いを帯びていたのであります。
私は不必要に早起きをしない主義なのですが、こう云う時は何を於いても「早起きは3文の得」と思っております。これは充實した1日を送る上で必要な事だと認識しております。
こうした一幕があると心が和みます。
雨上がりにふと顔を上げればこうした虹も見られます。
感受性を豊かにするものは幾らでもあるのです。難しいのはそれに氣附くか否かではなかろうかと存じます。
上を向いて歩こう
古來、我が國のあらゆるものが美しかったのだと思います。
それは文字通り日常のあらゆる景色に美しさがあった事を知っていたからだと思います。
ところが何かと荒廃した今日、殺風景な物軆と無機質に溢れ、人心もまた荒み、或いは豪雨に酷暑と天候も狂い、そうしたものを見失いつゝある現代。
そんな時こそ、旅先の自轉車でふと氣が附いた「一寸立ち止まって周りを見てみる」と云う事をしてみると、今そこに在る美しさを發見する事が出來るかもしれません。
夏は終わりを告げつゝありますが、尚酷暑は續く事かと存じます。
今少し夏の残照を愉しみ乍ら、やがて訪れる秋空の美しさをこれからの樂しみに致したいと存じます。
何も特別な準備も元手も必要ありません。
こんな良いものがすぐそこに在るのですから。