一人を楽しむブログ

孤独ならぬ御一人様を愉しむ為の備忘録。

6年目、そして160個目

お陰様で6周年

今日、7月3日は當ブログを開設した記念日と致しております。

細々とし乍らも6年間も續けられた事を大変嬉しく思っております。

また、この記事が丁度160個目のものとなり、これも記念の内とするところであります。

 

これまで多くの方々からご高覧賜り、ブックマークならびに数多の星の数も皆様から頂戴して心より感謝致しております。

この場を以って皆様に深く御礼申し上げます。

 

取るに足らない當ブログかと存じますが、一人の内に經驗する事は或いは人生に於いてとても貴重なものであると考えております故、ブログの銘にある「備忘録」と致し、記録している次第でございます。

この記録の内容がどこかで何かのお役に立てれば幸いに存じます。

 

「一人」と申しますが決して「独り」ではないところ、私はこれを以って日々を愉しんでいるのであります。

乱文乱筆の多き事と存じますが、今後とも何卆よろしくお願い申し上げます。

乾杯。今日と云う日に

お中元を戴く

今日と云う日を記念してお中元で戴いたハムを焼いて今宵の晩酌もまた味わい深し。

初夏の頃に出掛けた久留里線の旅で賈って來た土地の酒「吉壽」の徳利と蛇の目の御猪口は自慢の酒器コレクションの一つ。

嗚呼、幸せなるかな今日この頃。斯くもお一人様の愉しき事、仮令一瞬たりとも無駄に出來ませぬ。

お部屋の片隅に

今年も簡單ではありますが夏の風情たる七夕の飾りを用意致しました。

毎年この時期にやっている個人的なコダワリですが、こうした昔からの歳時記は暮らしに潤いをもたらすものでございます。

今年の願い事は「諸惡退散」に「厄難消除」です。

今日社會は荒廃しておりますれば、日々を平穏無事に過ごせ、幾らかの愉しみが有ると云うのはとても幸せな事と存じます。その時間の過ごせるを感謝しつゝ、また一字一句をばブログに書き記し、忘れじと欲するのであります。

夏は來ぬ

まだまだ頑張る扇風機

さて愈々以って暑さはその猛威を振るい生活にも惡い影響が出ておりますが、時にこうして風情に浸る事を忘れずに、これからの夏をも樂しき思い出を作らんと思っております。

 

窓を開けて軒先に風鈴を吊るし、蚊取り線香などを焚いてカラカラと少々うるさい昔乍らの扇風機(平成9年製)を動かしてみると意外な清涼に暫しクウラ様の電源を切り、ほんのひと時の安らぎの時間を過ごしております。

窓際の廣縁に見立てた空間に置いたソファに腰掛けて珈琲とアイスクリームなんかを頂戴すると一日の終わりがとても充實したものに感じられます。

夏の夜風を愉しんで

愉しみが有るから頑張れる。

そんな幸せを噛み締めて6年目を迎えた當ブログの160個目の記事を密かに祝い、その樂しき時間に皆様のお力添えの有るを深謝致し、忘れない様に斯くは記録に残すところであります。

この度は誠にありがとうございました。

久々に描いてみました

今日で6月も終わり、愈々以って1年も「後ろ半分」即ち後半の氣配も更に感じられる今日この頃ですが、時の移ろいの早さや如何にとぞ思える折、斯くも1年の儚きを思うのであります。

 

さて先日の事ですが前回の記事にも致しました色鉛筆画の件、随分昔に打ち込んだの趣味でしたが久々に1枚の繪を描いてみる事に致しました。

大好きだった豆腐屋さんの繪

完成直後

以前描いた豆腐屋さんの繪です。

今度は別の角度から描いてみました。

 

 

實は色々有り、このお店の豆腐が食べられなくなってしまいました。

而して心を込めて描きました。

昔、子供の頃から今迄の思い出を一つ一つ思い出す様に描きました。

ずっとずっとそこに在り續けた、當たり前の様にそこに在ったお店を思い出し乍ら、感謝の氣持ちを込めて、そしてそのお豆腐の味を忘れじと心に強く思って一筆一筆を恰も過去を旅するかの様に走らせた1時間半。

 

こう云う時間も日常の中の非日常なのでありましょうか、まるで鍋を持ってお豆腐を賈いに行ったあの頃が、つい昨日の様にさえ思えます。

夏の夕暮れ時の涼風が心地良かったあの頃。近所の家からは夕飯を作る匂いに蚊取り線香の香り。そして窓からは樂しげな他所宅様の家族の声がよく聞こえてきたものです。

今は昔、もう思い出の世界でしかありません。

 

ですが、たとえ現實でなくとも、少なくとも過去には現に存在していたものであり、その實際の所謂「リアル」な思い出があるだけ私は幸せなのかもしれません。

そう云うものを一つでも多く残せる人生が素敵な生き方なのかもしれないと思いつゝ、暮れ行く今日と云う日を静かに酒を傾けて古くから在る居酒屋で店主と少々の會話を愉しんで懐かしき歌を聴き乍ら一杯やっておりました。

イマドキの荒唐無稽な「似非レトロ」ではない心に残る「本物のレトロ」

昨今古き良きものは、まるで何者かの意圖したが如く加速度的に失われております。

蓋し「良きもの」が失われている事に変わりはないのであります。

そして新たに出來るものが良きものとは限りません。

残り少ない価値あるものを私は力の限り心に留め置く努力を惜しまないのでありました。

愛用の品々

これで描いております

今回の繪を描いた色鉛筆は、かの獨逸國の有名な「カステル」

世界最古の鉛筆メーカーの逸品です。

發色殊に優れ、水に溶ける材質を利用して水彩画の様な表現も出來るスグレモノです。

昔流行った「かきかたえんぴつ」の如き三角形をした軸がミリキ的であります。

 

この色鉛筆は芯が柔らかいので鉛筆削りを使うと芯が折れてしまう恐れがあるので削る際は昔懐かしの「肥後守」を使っております。

銘は「定駒」握りはステンレス、刃は鋼で出來ている汎用品ですが、古くから在る金物屋さんで賈った長年愛用し續けている大切な一品です。

 

消しゴムは練り消しを使っております。これも古くから在る地元の文具屋さんで賈っている物です。

人によって砂消しやパン屑等の好みがある様ですが、私は昔からこの練り消しを使っております。

 

「カステル」も取り扱いをしているお店が無くなってしまったので似た様な物を追加で單品購入しておりますが、こうした専門店も今は少なくなりました。

短くなっても昭和世代ならみんなが知っている懐かしの「補助軸」で以って使い續けております。

 

画一的で無機質的な量販店が増える中、今の今迄存續させてきた古き良き老舗にはイマドキでは到底出來ないであろう利点がいっぱいあります。

勿論イマドキのお店にもそれはそれとして優れた点は有るでしょうが、これら愛用の品は嘗ての温かな幸せいっぱいだったあの頃の思い出が詰まっているだけに、どれもがとっても大切な物なのです。

愛用の品は「物を大切にする心」を教えてくれているのです。

 

 

古くからあるものが次々と姿を消していくイマドキの様相は多くの人が望み、これで良いと考えている結果であろう中、私の如きは時代に取り残されているのかもしれませんが、かのガラパゴスゾウガメの如く絶えず絶滅の危機に瀕してい乍らも周囲に迷惑をかけず、且つ悠然と生きていたいと感じている身の上でございます。

 

そういうものに、わたしはなりたい。

心の中に、いつまでも

最近、加速度的に昔乍らの風景が失われつゝあります。

そして、それはもう二度と再び現れる事の無いもの。もう二度と訪れる事の出來ない場所になっているのであります。

 

この程、ずっと昔からあった風景がまた一つ無くなりました。

子供の頃からずっとずっとそこに在り續けた、いつもいつも當たり前の様にそこに在った、いつまでもそこに在ると思っていたものが無くなってしまうのです。

諸行無常を受け入れて

物事にはいつかはお別れをしなければならないものが幾つもあります。

寧ろ永遠に存續するものを探す方が難しいのだと思います。

人の命に限りがある様にこの世に絶對と云うものはありません。

而してお別れの無い人生など有り得ない事なのです。

 

人生は別れの連續であり、生きている限り様々なものを失っていく事は當然の事だと思っております。

hitoria-juvey-ucchiyi.hatenablog.com

大切な人や物を失い、それがもう二度と元に戻らない事など或いはごくありふれたものなのかもしれません。

しかし、悲しみや辛い氣持ちから時にそれを受け入れ難く思う事があります。

當たり前の事です。

 

しかし出來れば失いたくないものであり、當たり前の様にずっとずっと存在し續ける事をいつも願ってきたものさえ、無くなるのです。

そう云うものなのです。

だから、それが在り續けた有限の時間を可能な限り大切にしたいと思うのであります。

 

時にいつもの如き日常ではその事を忘れてしまいます。

然るにいざ無くなってしまった時に初めてその時間の如何に尊きを思い知るのです。

そして僅かに残された最後のひと時を特別な思いで送り、刻々と迫る別れの時を過ごすのです。

忘れない様に

そうして過ごした思い出の時間は忘れない様に感受性の限りを尽くしてよく記憶し、その軆驗をいつまでも心の中に留めておくのです。

私は實物が無くなってしまっても何らかの形で在りし日の思い出を忘れない様に残しておく事に致しました。

寫眞や動画等が最も身近な方法ですが、忘れない様によく心の中に留めておくのです。

 

そこで色鉛筆の繪を描く事に致しました。

今迄に失った、もう二度と行けない様々な場所を再訪するが如く、その一つ一つをよく思い出して描いてみる事に致しました。

 

そんな風景の澤山の寫眞があります。

それらをモデルに少しずつ、思い出と共に描いていこうと思います。

昔描いた作品の幾つか

これは10年程前にまだそこが健在だった頃に描いたものです。

あまり巧くない部分もありますが、私なりに大切な思い出に通じるほんの小さな覗き窓の様なものなのです。

どうぞ大目に見てやってくださいませ。

地元の神社

これは木々が生い茂る季節の地元の神社を描いたものです。

その木陰は燦々と照りかえる陽光を遮り、涼しげな木陰を葉の揺れる風のさえずりと共に作り出し、緑の境内には社務所から薫る蚊取り線香の煙と共に古き良き日本の夏の日の匂いを蝉の歌声と共に現代に傳えているものでありました。

今この場所にはそんな風情とは完全にかけ離れた超ハイカラな分譲マンションが建っており、子供の頃に遊んだ記憶を呼び起こす土と草木の香りのした境内は全く以ってコンクリートで舗装されているのです。

温かな町並み

近所に在った昔からの家は急速にその数を減らしております。

後に建つのはこれまでの温かさが嘘の様な建物ばかりです。

建物としては最新の技術で高品質になったかに思えます。そしてそれが多くの人の望みでもあるのです。

だから否定的になってはいけないのかもしれませんが、私はどうしてもあの頃の思い出が懐かしく思ってしまい、一際それを忘れじと思うのであります。

そうすればこそ尚の事、無機質的なものにすっかり囲まれてしまった町並みに在っても無味乾燥の極地となる虞を撥ね退けようとしているのかもしれません。

大好きだった銭湯

まるで時間が止まったかの様に在り續けた銭湯も今ではすっかり少なくなりました。

僅かに残った昭和の残照を感じる事が出來るのは、もうこれが最後の瞬間かもしれません。

後に出來るのは、あまりにも小奇麗になり過ぎてしまった便利で快適でどこにでもある様なあまり面白味の無いイマドキのお店かワンルームマンションばかり。

そのイマドキのものの悉くに魅力を感じないのは或いは私の非であるかもしれませんが、そこに嘗ての様な人の触れ合う声やほっとする温かな雰囲氣があるかどうかは大きな疑問符が附くものだと思います。

それと同時に本物を知らない出鱈目な「似非レトロ」の如きものの巾の利くイマドキのものが残念でならないのであります。

素敵な裏通り

よく鍋を持って賈いに行ったお豆腐屋さんの在る昔乍らの裏通り。

雑然とした雰囲氣の中にまさしく誰もが「きしている」と云う實感があり、夕日の沈む頃合いにごく限られた人だけが感じる事が出來る「幸せ」にも似た風情がそこには確かにありました。

人の交わりの無い冷たい仕組みが増え、古き良き日本の情緒は意圖的とも思える位に「破壊された」と言っても過言ではないかもしれません。

 

物には耐用年数があり、いつかは使用出來なくなる時がやって來ます。それは仕方が無い事です。

古いものを淘汰し、新しいものを廣げようとする事は決して間違いではありませんが、新しいもの、とりわけイマドキのものがどうしても作り出せない素敵なものがそこにあった事もまた事實です。

だからこそ私は一人の日本人として、イマドキが失ったそれを少しでも心に思い留めておくのです。

願わくばそれを蔑ろにせず更新をするすべを發見出來ればどれほど素晴らしい事かと思うばかりです。

 

 

私はもう二度と行けない場所をよく見ておくのです。

忘れない様によく見ておくのです。

時々心の中にあるあの頃の風景を思い出して少しずつでもまた繪に描いてみようと思います。

Harmony is the greatest of virtues.

和を以て貴しとなす。

 

これは日本人なら誰しもが知っている概念であるかと思います。

なかなか諸外國の聯中には理解が難しい様ですが、英語にしてみると少しは解り易くなるかもしれません。

 

要するに世の中に於いて「ハーモニー」が存在しているのであり、それを乱さぬ様にする事が大切なのでありますが、時にそれが理解出來ない人が現れている様です。

櫻に「和」を見うる事

遅蒔き乍ら今年のお花見の話題に移ります。

今年の櫻

これは丁度先月の今時分に近所に櫻を見に行った時の一枚です。

見ての通り見事な花を咲かせております。

今年も古くからの友人と花見に出掛けたのでありますが、そこで「和」の精神を改めて感じた次第。只單に櫻の木の下で酒宴を開いていたのではありません。

風景に映える櫻の木

それはこの櫻の花の美しさが、それ單軆のものでなく、周りの風景と合わさって見事に調和している美しさがあると云う事であります。

 

櫻の花は淡い桃色乃至白みがかった紅色をしているものが多いのですが、極端な話、この色見本か何かのサンプルを見ていても何ら面白味はありません。

それが櫻の花の形を成し、それが更に木々に散りばめられ、そしてそこに展開する眺めをば我々は愛でているのではなかろうかと思うのであります。

染井吉野の里にて

即ち、我々は無意識のうちにその調和を愉しんでいたのではなかろうかと思うところにして、花見の風流が櫻の花に向けられているのと同時にその周囲の環境がより一層それを美しく魅せるのではなかろうかと思うのであります。

〽さくら さくら 

例えば櫻の花と一緒にその幹を眺めてみると淡い色にその黒々とした色合いの對比が美しく、更にその周囲の他の植栽の緑ともまた上手く調和し、遂にはその背景の空の色、晴天にも曇天にも雨天にさえも、そして勿論夜空にも見事に映えるものであるかと存じます。

夕闇にも美しく

この謂わば「マクロ」の視點から花一つ一つを注視する「ミクロ」の視點に移してみると、この美しさの一つ一つが大いなる美を演出しているのに暫し氣附かされるものでございます。

自室バルコニーからの夜桜

これは遥か昔から詠まれている日本の美であり、日本古謡の『さくらさくら』にて古來謡われている「見渡す限り 霞か雲か」そのものではなかろうかと存じます。

參色揃い踏み

この美しさの前では最早それとは對極的である無機質から成るビルヂング等の近代的な人工物でさえその美しさを支える名脇役の様にさえなり得ます。

但し、大切な事は櫻の美しさを損なわない様に佇む事であり、これが出來ない者はこれらの美を鑑賞するに價しない存在であると言っても過言ではないでしょう。

而して獨善的にして身勝手極まりなく和を乱す者は和の美しさの中に存在し得ないのです。

 

これだけの情報を瞬時に感受し、無意識の内に互いに風流に浸れる我々はまさに稀有な立ち位置に居るのではなかろうかと思えるのであります。

美とは音樂の様なもの

さて、斯くの如く例年の通り櫻は美しいのでありますが、櫻だけでなく色々な場所で色々な美に出會うものでございます。

或いはそれは音樂や藝術に例える事が出來るかもしれません。

つまり我々の尊重すべき「和」とは藝術そのものと言っても良い位に価値のあるものだと云うところであります。

また、それを昔から當たり前の様に可能ならしめた我が民族は胸を張ってそれを誇りに思って良いのではないでしょうか。

 

 

例えば管弦樂、即ちオーケストラの美しさは各樂器の音と旋律がバランス良く見事に合わさって一つの曲を美しく奏でるものであります。

もしも、クラシックの或る曲を愉しんでいる時に突如として全く異質の音色、例えばエレキの効いたベースやギター等がいきなり乱入して勝手な曲を演奏し出したら、それは台無しになります。

 

またそれは單軆の美についても同様です。

音樂の樂器には様々な音があり、それは唯一無二の存在と言えましょう。

美術館等で展示されている諸々の静物等と同じで謂わば「ソロ」の美しさであり、他に余計なものが無いからこそ美しいものでありますが、そこに訳の解らないものが附いてきたら、それこそ蛇足。その美しさも台無しと云ったところでしょう。

 

しかし時としてこれら2つの美を取り違える事の多き様に思える今日この頃、社會は今や碌でも無い物事の多き事と憂國の念に堪えません。

「和」をハーモニーと訳す妙味

そこでこれらの美の内に「和」の心があると感ずるのが一つのヒントになる様に思えるのであります。

和とはそれぞれが調和する事により、全軆の平和を實現せんとするものにして、そこには互いを尊重し合い、それらと協調して争いを無くす働きを古くから説いているのであります。

これを一言で「ハーモニー」と訳すと世の中の色々なところに色々な種類の美があり、それぞれが各々の美しさを演出しているとすれば、互いにそれを台無しにしない事、即ち「ハーモニー」がまず肝要な部分かと存じます。さすれば即ち、世の中は美しいものに溢れる事と存じます。

かの有名なワンポイントレッスン

つまりは自分の周囲には大小の様々な種類の音が存在しているのであり、その調べをよく観察し、その美しさを棄損せず行動するのが「和」の精神であるかと存じます。

難しい宿題

しかし乍ら現實と理想が必ずしも一致する事の無い様に、時に互いに相反するものに遭遇するものであります。

これは人間と云うものの生態がそうなっているのであるからして、幾らそれを統御しようとしても社會生活を營んでいる以上、それは無理と云うものかと思います。

時に大切な「美」を守る為に敢えて相手に立ち向かい或いは斗わなくてはならない場面もありましょう。

 

「和」の精神に曰く「睦まじく和やかによく議論して内容を調整する」と云うのが通用しない場面が多くなりました。

別の価値観が余りにも巾を利かせ過ぎ、或いは飽く無き個人主義の正義を振りかざし、日本人として古くから大切にしていたものを蔑ろにする勢力が強くなってきたのでございましょう。また、一部の強者や圧力に由る誤った方向への同調と云うものも少なからず存在します。

 

そうである以上「和」の究極的な實現は極めて困難なのでありますが、この難しい宿題を今日と云う日に今一度考えてみんと欲するのであります。

折しもツツジの見頃

櫻の時期は過ぎましたが今やツツジも見頃を迎え、新緑の景色の美しさもまた一段と見事であります。

昔から愛でられてきた日本の四季折々の自然の美から私達も何かしら學ぶところの多き事と思えるのであります。

 

 

 

時に今日は憲法記念日

現在の日本国憲法の制定されるを記念する一日でありますが、日本の持つ類稀な「いにしへ」に思いを馳せると、そこには第一に曰く「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」と云う一文を日本の地に生きるヒト全てが理解出來れば或いは…とあくまでも理想を以って乱文乱筆を平に詫びる次第でございます。

嘗ての「みどりの日」にて

折しも今日は「昭和の日」と呼ばれる1日。そして大安吉日。

私の世代では「みどりの日」と云う名称の方が親しみがあります。

いつの間にか5月4日が「みどりの日」と云う事にされてしまいましたが、今日は昭和天皇のお誕生日であります。

昭和天皇は植物に造詣が深くあらせられ、かの名言「雑草と云う名前の植物は無い」と牧野富太郎博士の金言を引用されたお言葉が非常に有名であります。

故にこの自然を愛された昭和天皇のお氣持ちから「みどり」となった經緯がある様でございますが、更にこの1日には次の様な思いが込められているとの事であります。

 

我が国の国民生活は、物質的にはほぼ満足し得る水準に達したものと考えられますが、これからは、これまでにも増して心の潤いやゆとりといった心の豊かさを涵養することが求められています。

我が国は緑豊かな自然を持った国であることにかんがみ、この自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな、心をはぐくむことを願い、「みどりの日」として国民の祝日とするものであります。

平成元年2月10日・第114回国会にて、みどりの日を制定する際の説明より

「心の潤い・豊かさ」が鍵

今日、昭和の時代より諸々進歩した点の多き事と存じますが、そんな中で失われていったものの多き事もまた事實かと思います。

その本質を見る意味でも、この「心の潤い」や「心の豊かさ」と云ったものを育む事は今日と云う旗日を制定した當時よりもより一層重要な課題と言えるのではなかろうかと存じます。

 

しかし乍ら多くの人が、それを行うにはどうすれば良いかと云う方法を見失っている様にお見受け出來ます。

中にはその点に關する無知と無力、そして無策無謀から輕挙妄動に捕らわれトンチンカンな事をしては却って心を荒廃させる者が現れる現實が存在する様であります。

 

 

私は當ブログの主題の通り、より充實した日々を樂しく過ごす事を日常の重要な課題にしております。

而して、嘗ての今日と云う日に込められていた意味合いが如何に大切な事かよく理解しているつもりであり、それを追求する事が今日の幸せと認識致している次第であります。

身近で手輕で些細な事から

とりあえず折角の「みどり」ですから、新緑の季節となって參りましたので近所を散策して木々の若葉の美しさを鑑賞してみるのが宜しかろうと存じます。

新緑や 探さば見ゆる 街中も

身近に在る自然の美しさに触れるだけでも先の旗日の趣旨に照らし合わせてみると誠に結構な事かと思います。

これだけでも安らぎを感じたり何らかの落ち着きや樂しみを覺えるものかと存じます。

それが出來る事こそが謂わば「心の潤い」や「心の豊かさ」なのではなかろうかと存じます。

足元に目をやれば…

こんな一瞬に出會い續けていると氣持ちの持ち様はそのうち何とかなるものです。

何も複雑な道具や高額なお金が必要な事ではありません。

ほんの鳥渡した瞬間でも良いので、そこに在るものに触れて心が休まる何かが生ずれば單純に近所を散歩するだけでも良いのです。

みどりの日」には緑茶で一服
「僕等の生まれてくるずっとずっと前にはもう」とのアポロがお茶請け
萬券も変わり、月の石も今や万博に再登場との事。
…鳥渡古いかな………。

今日も鳥渡したひと時を過ごしては斯くの如くその内の面白さを感じております。

そうする様に心掛けてみると存外日常には様々に面白き事を發見出來る事かと存じます。

この「技術」の習得には少々要領が要るかもしれませんが慣れてきたり少し余裕があればこれを起点とし更に活動範囲を拡げて様々な取り組みにつなげていけば、より充實したものが得られる事でしょう。

或いはご自身の趣味と融合させて獨自の愉しみを得られればシメたものです。

そして、もしそれがより多くの人をも同じ様に心に安息をもたらし更に多くの人の役に立つものであればどれだけ素晴らしい事でしょう。

大切なのは「特別な事をしない特別な時間」と云ったところでございましょう。

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何だかんだで去年も同じ様な事をして過ごしておりました。

現「昭和の日」なので…

折角「昭和の日」と云う名前になったので昭和に關する話題を一つ。

 

数年前に山形を旅行に行った際に友達に土産を賈って來ました。

私は人に差し上げる物には何かしら「メッセヰヂカード」の類を添付する様に心掛けております。

それがこちら…

あの頃の「電報」

以前、Excelで作った電報を印刷した物です。

となりのトトロ』でも見る事が出來る電報。ちゃんと昔の通りの折り方をしております。

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プライバシー部分は修正が加えてあります。

開けてみるとこの通り。

昔を知る人には懐かしく、最近の人には斬新な「電報」です。

 

少々の手間ですが、これだけでも作る側も貰う側も樂しくなれるものです。

或いは「心の潤い」や「心の豊かさ」とはこう云う時に役に立ち、且つそこでまた大きくなるものではなかろうかと存じます。

 

成程斯くは昭和は豊かだったのであります。

窓際に椅子と机を用意して

俄かに櫻が花を咲かせ、その美しさは見る者を樂しませます。

今年もこの時期がやって參りました。

 

私の住んでいる地域も例外ではなく、この土日は近所の櫻の木も8割程開花して道行く人は思い思いにそれを愉しんでいたのでした。

また、今年はこの近隣ではマナーを守らぬ邪惡な人物が存在していない事に深く感謝致しております。

この日本の春の季節の美しさは、まさに寶物の様であります。

而して私も例年の如く櫻を愉しむのでありました。

今年も「お花見」

私の居住するマンションのバルコニーからは櫻の木が見えるのであり、毎年ここで必ず「お花見」をしているのであります。

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毎年樂しみにしている「お花見」

今年もこれを行います。このお一人様の小さな小さな「イベント」が日々を樂しくして四季の移ろいを感じ、日本の情緒を味わう事が出來るのです。

折角そこに在る日本の素晴らしき美しさであります。これに敬意を払い有用に活用する事は我が民族の大いなる財産であると思うのであります。

バルコニーからの眺め

折しも昨日は花冷えとなる雨。しかしこれはこれで風情のあるものです。

晴れなかった事を嘆くよりも雨である事を喜ぶのが風流と云うものです。

これはこれでいいのです。

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こう云う事に尽力を惜しまないのが樂しいお一人様の日常です。

ほんの少しの準備と手間で

室内から櫻を眺む

淹れたての日本茶に雛祭りの時に賈って余っていた雛あられを戴きます。

窓際に椅子と机を用意してお茶の時間を愉しみます。

お氣に入りの「玉座

私が生まれるずっと前から存在している一人掛けのソファーです。

祖父の家に有った物を譲り受けて今日に至ります。品物が良いので何十年と云う長い年月を經てもどこも壊れません。

その脇には小學生の時に作った小さな机。

足元のタオルには、これまた昔乍らのトタンの湯たんぽを包んであります。

その他、笑点の座布團に量販店の景品でもらったひざ掛け…。

物持ちの良さと、こう云う物をどこからか入手してくるのに定評があります。

 

さて、これらお氣に入りの「アイテム」に囲まれて雨の日の櫻を眺めておりました。

麦酒の出番

勿論、途中からこう云う物が出てくるのはいつもの事です。

いつの間にか酒も入り、筝曲の「さくらさくら」を聴き乍ら自宅で風流に浸っております。

 

何しろ「自分だけの空間で花見が出來る」と云うのは良いものです。

私は数ある物件からバルコニーからのこの眺めが決め手で現在のマンションを選んだ様なものです。

殊にイマドキはこうした感受性を刺激する日本人ならではの四季の愉しみが日常的に必要になるのではと思うところでもあります。それが所謂「ストレスフリーな生き方」と言えるのではなかろうかと思うのです。

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先程來寫っている小テーブルは以前作った「どこでもテーブル」

一つ有ると何かと便利な品物です。今回も窓枠に設置して大活躍です。

熱燗に鮨

陽が沈めば「雨の夜櫻」と洒落込みます。

外は冷えて參りましたので熱いのを戴きます。

鮨を片手に熱燗をすすると寒き外の夜風もまた面白いものです。

夜桜

トタンの湯たんぽは電氣製品には無い温もりがあります。こう云う物を大切にするのが無味乾燥とした現代社會を生きる上で有効な對策となりましょう。

古くからの品物はとっても便利なのです。

愛用の品。勿論、日本製

晴れて本日

そんな昨夜が明けて本日、よく晴れた午前中は近所の公園を散歩に出掛けました。

來週に友人と集まって花見をする下見も兼ねております。

こう云うひと時は樂しいものです。

まさに見頃

つくづく思います。「日本人でよかった」と。

樂しく、美しく、格好良く

この日は私と同じく寫眞を撮りに來られた方が多数いらっしゃいました。

お互いに譲り合って「すみません」と言い合える間柄。こう云うマナーを守れる時が或いは一番樂しく美しい時なのかもしれません。お花見はこうして「格好良く」臨みたいものです。

 

園内に敷物を敷いて花見をされている人達も「憚り」を以って樂しんでおられます。

こうした事の出來ない者は格好惡く、そして邪惡なのです。

今日もバルコニーから

今日も櫻は美しく、そして我々を樂しませてくれます。

その美しさ、樂しさに見合った存在になる事で風流を愉しむ事を許されるのではなかろうかと思うのであります。

風情に浸って心を洗濯するが如く、今年もバルコニーにて自分だけの「お花見」を愉しんだのでありました。

 

 

 

ー參考ー

「どこでもテーブル」につきましては下記々事にてその製法等詳しくございます。

ご興味があれば是非ご覧ください。

note.com

「ゴルフ」を見習って

十数年前の今日3月23日は大學の卆業式でした。

何を間違えたのか私はこれでも經濟學部の卆業生総代をする事になってしまい、友人達を大いに驚かせたものでした。

他學部の総代の方は名前を呼ばれては返事をして証書を受け取ると云った流れを粛々と行っていたのに何故か私の時だけ會場がどよめいたのが良い思い出です。

 

大學時代はとても総代になる學生とは思えない様な色々といい加減な事をしては見えないところで日々精進でした。

そうした生き方が好きな性分だと未だに思っております。

ゴルフの思い出

そんな大學時代の生活が終わってから随分と經ちました。

社會に出てから久しく、漸く私なりに一端な生活習慣を身に附けたかに思えます。

普段は所々で手を抜いて、いざと云う時に備えるべく、見えないところで日々精進。

あの頃と同じ様に日々を愉しんでおります。

 

そうした中、ここ最近で新しい生活の仕方として取り入れたものが「ゴルフ」でございます。

 

こう見えてもゴルフは好きで、大學時代は單位を全て取り終えてしまい就職活動も無事に濟ませた4年次は遊びに時間を費やす一方、履修する必要の無い好きな授業を取っては友達と樂しんでいたものでした。

その一つに体育科の選択科目の「ゴルフ」がありました。

 

授業の内容は打ちっ放しに行って1ケース打ち込むと云ったもので1回の授業に300圓乃至が600圓が消費されましたが、これが樂しかったものです。

これは友達数名と週1で練習場に通う事でもあり、講師の先生もかなりのゴルフ經驗者で色々とスイングのアドバイス等を戴いたものでした。

學期末の試驗は「アプローチをしてピンそばに着ける」か「ティーショットで決められた標的に飛ばす」のいづれかでした。

 

ちなみに私はドライバー等で飛ばす事よりも7番アイアン辺りのアプローチが得意だった様です。

左利きなので打席が限られましたが大學時代の良い思い出です。

 

それから随分長い間ブランクがありましたが、最近になって何やら興味が再發してきました。生活に少々のゆとりが生まれたのかもしれません。

我がWiiは未だ健在なり

このところWiiのゲームでゴルフをしております。

物持ちが良いとよく言われますが周辺機器も問題無く動作しております。

そのまゝでは輕過ぎるので手に重りを取り附けてリモコンを振っておりますが、これがなかなかよく出來ていて日常の隙間の様な時間にストレス解消と良き運動となっております。

 

しかし日々の暮らしでゴルフが役立つのはこれだけではありません。

マナーとエチケット

少し前に圖書館でこんな本を借りて參りました。

ゴルファーの心得

これはゴルフをプレーする上で重要になるマナーやエチケットが記されており、ゴルフ場でラウンドに出る際は必ず一讀しておくと良いとされております。

 

最近は随分緩くなってきた様ですが、本來ゴルフは統御されていない自然を相手にし、且つ審判の居ない競技でもある為、競技者の人格が大いに試される種目であります。

俗に「紳士のスポーツ」とも呼ばれており、他の球技と比べて競技のルールと同等以上に競技者のマナーやエチケットを問われると云う大きな特徴があります。

 

私が生活習慣としてゴルフに着目したのはこの部分でございます。

「紳士たる振る舞い」を日常に

最近は恐るべき肥大化した個人主義が台頭しており、その猛威は日常のすぐ近くを脅威に陥れているのであります。

そんな中で思い出すのがこのゴルフに於けるマナーとエチケットです。

 

私の信条として「人様に迷惑をかけない」と云うのが絶對的に存在致します。

専門的な事はともかく、ゴルフ場での「紳士たる振る舞い」も結論的にはこれに繋がっているものでございます。

 

他者を蔑ろにする自分勝手ではなく、そこに居るすべての人を思いやるこの取り組みは鳥渡高級なゴルフクラブでは常に求められているものでございます。

もしこれを破る様な事があればゴルフ場から退場、最惡の場合「出入禁止」や「會員抹消」ともなる恐れもあります。

 

マナーやエチケットを守らない者は追放されるのです。

 

それは或る種の「決まりもの」であり、それがあるからして多くの人がトラブルを回避して樂しみを共有出來る様になるものです。

その為の仕組みなのであり、この不自由を遵守する事が最終的に幸福の最大化につながるものであります。

不自由を遵守する

さて、舞台をゴルフ場から日常生活の場に移してみましょう。

今日そこは歪んだ「アナーキー」の如く無秩序状態であります。

かの有名なピッコロ大魔王が理想とした「惡と恐怖に満ちた素晴らしい世界」と云う訳です。

 

一切の制限が無くなれば、そこに在るのは大いなる不幸と云う事であります。

この逆説的で矛盾しているかの様な理屈の説いている事が日々守るべき「不自由」と云う事になるのかもしれません。

 

「不自由」とは決して忌み嫌われるばかりのものではないのかもしれません。

それが有る事によって様々な問題を回避する事にも繋がる場合があります。

或いはマナーやエチケットも一種の「不自由」とも捉える事さえ出來るでしょう。

 

然るに我々はこの「不自由」を守り、件の書物に記されるゴルフをプレーするに當たっての競技者の心構えの如く、日常生活に於いてマナーとエチケットに氣を配る「紳士たる振る舞い」が必要なのだと思うのであります。

 

イマドキは不自由を嫌う傾向が強いものでありますが、幾ら自分だけの世界に閉じ籠ろうとしても社會生活を營んでいる以上、それは無理と云うものです。

また不自由に慣れていなければ、いざ自分がそうした場に置かれた時に必ず破滅的な問題を起こしてしまうでしょう。

 

ものには限度があり、これは眞言密教の説く教えの如く、一つ間違えれば大変な害惡になってしまうものでありますが、そこに「ゴルファーの心得」を參考にしてみると日常生活に於ける「紳士たる振る舞い」とは如何なものかと云うヒントを得る事になるのではなかろうかと存じます。

 

ゴルファーのマナーやエチケットは書籍やインターネット等で容易に調べる事が出來ます。

色々と長くなるので割愛しますが、かいつまんで言うと「他人に迷惑をかけない」と云う事に尽きると思います。

決まりを守って樂しくプレー

全てのプレーヤーに敬意と思いやりを。

 

社會は大きなゴルフ場の様なものであり、そこには多くの人の集まる「クラブハウス」もあれば、様々な人がラウンドを愉しんでおられます。

そのどこかで、いさゝかでも自分勝手が横行して決まりが破られゝば、それはより多くの人に波及して大いなる負の作用を生み出す事でしょう。

そうならない為の取り組みに今一度注目してみては如何でしょうか。

「いいぞ」と思える振る舞いを

それを大切に出來る社會人を心掛ける事にして、懐かしきあの頃、着物で臨んだ大學の卆業式を思い出すのでありました。